|
|
| 聴 法 録 262 |
聴法録262-1
信心とは、如来より(一方的に)廻向される仏心の事ですから、廻向された信心こそが如来にほかなりません。ですから、「私が信じる」などと言ってしまうと、信心は私の所有する心になってしまって、仏より私の方が上位になってしまいます。このような信心は、結局、私の心で、私を導く普遍的な宗教原理になどなりえない、ことは明らかです。「信じると言う事と、如来と言う事と、二つの事柄がある。」「二つの事柄はまったく一つの事である」という言葉の意味は、信じること、すなわち、信心は如来から与えられてきた心であり、信じる心が仏心、すなわち、如来である、という意味だと理解できる。
「内」「外」という分け方があるが、大体、私の心は「内」かという問題がある。心を「内」とし、身と身を置く環境を「外」とするが、人間の心は身に属しているのだから「外」というべきではないだろうか。むしろ、本当の「内」とは、心に生じた仏心だとすべきでしょう。
仏心「内」は人間の心「外」ではないので、人間の心に影響されることがありません。それゆえ、不動心とも、金剛心ともいうのです。私たちが真に拠り所とすべきは、内に生じた絶対無限の仏心であり、相対的な人間の心などではない。
絶対無限の生命そのものに安んじ
絶対無限の生命そのものにまかせて
絶対無限の生命そのもの生かされて生きている。
絶対無限の生命そのものに感謝し安楽する。
|
|
|