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             聴  法  録  270

聴法録270-1

一切                                    
一切 は 一切 と対立してあるのでなく 一切 を含めているものですからつまり
一切                     一切    
一切 としての自己の生命の実物は  一切 と 一切 との両極を、それ自身の内にコソット容れ、自らの中の思い迷う分別能力を、そういう自己自らの深さへの方向として納めこむことに於いて完結している事だと言う事です。それはあたかも自己ほんらいにおける羅針盤の針みたいなものです。この羅針盤はいつも自己本来の深さに向かって、指している。それ故この自己本来の羅針盤の針に従う限りたとえ
 
一切 の我が外部的に失敗しても苦しんでも、絶望することはありません。たとえ絶
                                        一切
望したり苦しんだりしても、それは単なる一切の我の想いでしかない。一切の生命
としては、なおそれを乗り越える力が湧出してきます。またたとえ起こったとしても、もっと深いところでなお愛し、相手を育て上げようという無限の慈悲の力も湧いてくる。それが自己本来の生命力というものです。その点われわれは、失望したり不安があったりしても、不合格という訳でではありません。自己は何処までも深さの世界なのですから、失望や不安を感じることを契機として、なお、自らの中に深まるだけです。しかもその深さは無限であり、無限の深さに深まることこそが自己本来の生命力です。

聖書に言うーーー
「われら四方より 悩み、を受けるけれども窮せず、詮方尽くれども希望を失わず、責められども棄てられず、倒されども亡びず。」

あるいわ親鸞聖人の言われる。

「煩悩の障りの眼は見ずと言えでも、大悲はあくことなく常に我を照らす」
というのも、、そういう自己本来の生命力に眼を開いたところにあります。これは決
   
して一切の自分、他とのカネアイにおいて、そうあるべきだというのではありません
                      一切
かえって一切の自分を内に含んでいる一切の自己の本来絶対的あり方としてそうなんです。だから自己はそういう自己にこそ深まっていかなくてはならない。−−−そしてこう生きる姿勢がキマッタ人のことを、仏教では菩薩と言います。
菩薩とは生命の真実へ向かう方向のキマッタ人です。(願生の菩薩)つまり

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

と言う事に方向のキマッタ人です。

更に言い換えれば菩薩とは、自己ギリの自己、自らの中に無限に深い生命を見、どこまでもそれに向かって深まっていく姿勢がキマッタ人のことです。