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| 聴 法 録 276 |
聴法録276-1
真実の生命の内にいながら
真実の生命の為に
真実の生命を修する。
これが生命というものです。
真実に生きようと、真実に生きまいと、どちらでもいいことです。ところが、この問題は、そのどちらでもいいような、そういう深さに向かって生きようという立体的な深さの話になるんです。だから道元禅師の座禅は、転迷開悟、迷いを点じて悟りを開くための坐禅ではない。悟りも、迷いも、どっちもひっくるめた深さえ向かって、ただ行じる。無所得、不可得のところでただ坐る。それが只管打座ということです。つまりどっちへどう転んでも、同じであるような、生命の絶対事実そのものへ深まっていく。それこそ人生の絶対真実なのです。
これは、その辺の宗教の話とはまるでケタが違います。現世利益転迷開悟、合格不合格、そんな話とは世界が違っている。あるいは修身、道徳、倫理そんなことでもない。要するに俺の技術、技量の話ではないんです。
たいがいの人はそこが分からないんです。せっかく修行するのなら、それと引き換えに俺が偉くならなければつまらないと思っている。でも死んでしまえば、そんな俺なんか偉くなくてもいいのと違いますか?
一生かけて歩んできた道というのは、実はこのどっちにどう転んでも同じであるような深さに向かってただする、ただ深まっていく…
その生命の構造性を言葉でハッキリ言い現わさんがための道だったと思う。
沢木老師はそれを「幽邃」といわれました。道元禅師は「深なり遠なり妙なり」と表現されています。そういう深い構造を持っているのが、人間本来の生命力のあり方です。
道元禅師がこういわれている
「行者自身の為に仏法を修せんと念うべからず、名利の為に仏法を修すべからず、果報を得んがために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず、ただ仏法のために仏法を修する、すなわち是れ道なり」
仏法とは、自己の生命の実物です。
自己の生命の実物の為に自己の生命を修する。これが生命というものです。
それから歎異抄の中に、親鸞聖人の有名な言葉がある。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よきひとの仰せを被りて信じるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに浄土に生きるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕ちるべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり」
念仏が極楽へいくものか、地獄へ行くものなのか、俺は知らない。ただ唱えるのだ。「愚身の信心においては此の如し」とそういう信心、信仰態度だけが大切です。
聴法録276-2
真実の生命を燈火となし
法を燈火となし
他を燈火とすることなかれ
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