本文へジャンプ
               聴 法 録 28

聴法録28-1

煩悩具足の自分が見えるとき、その時内在する真実の生命の光(智慧)が自分の煩悩を、照らしていて下さる内在する真実の生命がいる。自分では煩悩を見ることが出来ないが、内在する真実の生命の光(智慧)のみが煩悩をわからせて下さる。煩悩があるからと言って嘆くこともない。また煩悩を無くしようとすることもない。なぜなら煩悩は私の本性、生地、本質だから無くすることは出来ない。

ただ内在する真実の生命の光(智慧)のみこの私の煩悩を知らされる。この事は内在する真実の生命がそこにいると言うことである。煩悩があるから内在する真実の生命がそこにいることを知らされる。それこそ煩悩即菩堤、機法一体であり闇があって光がわかる。闇と光が一体であり、凡夫即仏であり、煩悩を知らされる時そこに内在する真実の生命がいることを、知らされることであり、煩悩を縁として、内在する真実の生命を信じることが出来る。そこにましますことを感じる。

煩悩具足を知らされることこそ無量の光(智慧)を内在する真実の生命を感じることである。不思議なことである。ありがたいことであります。
聴法録28-2

われ生きるにあらず、我が内なる真実の生命、生きればなり。
我が内なる真実の生命、現し働きになりますように。

私たちは、自分では意識していなくても、みんな人間としての完成を目指して、生まれ変わり、死に変わりしている。「生命の仲間」なのです。
仲間は、殺しあわない。仲間は奪い合わない。仲間は欺き合わない。それが仲間です。
私たちが、同じ時代、同じ世界に生まれてきたのは、お互いに助け合い、お互いに学びあうためなのです。私たちは、「生命の仲間」なのです。

煩悩の世界の内に光明一元の世界がある。
有限のいのちの内に無限のいのちがある。
差別の内に平等の世界がある。
相対の内に絶対の世界がある。

宗教では、「私たちの目に見える世界は、眼に見えない世界に支えられている」と教えています。ところが、私たちは、そういう「目に見えない世界」があるという教育を受けてこなかった。実際、学ぶと言うことは大切なことです。学んでいないと、目の前にあっても見えないと言うことがあります。小さい頃から、「目に見える世界がすべてだ」と教えられて育ちますと、「目に見えない世界がある」とは、想像する事さえできなくなってしまいます。そこで、自分とは、この目に見える「身体」のことだと思い込んでしまうのです。