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| 聴 法 録 283 |
聴法録283-1
「学人の第一の用心はまづ我見をはなるべし。我見を離れるというは、この身を執すべからず。古人の語話を究め、常座鉄石の如くなりとも、この身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道は得べからず」
「学道は須く吾我をはなるべし。千経万論を学し得たりとも、我執を離れずんば、終に魔抗に落ちるべし」
「仏道を行じて代わりに利益を得んために、仏道を学すと思う事なかれ。ただ仏法の為に仏法を修行すべきなり、たとえ千経万論を学し得て、座禅の床を座破するとも、この心なくんば仏祖の道を得べからず」
つまり我見我執を離れなければ、いくら常座鉄石の如く座禅し、座禅の床を座破するとも、仏道には適わないというのです。そうしてみると、仏道修行のネライが一体どのようなところにあるか大体わかるのではないでしょうか。つまり我見我執を離れて、ただ仏法の為に仏法を修する態度が何より大切だと言う事です。
そういえば仏教の根本は無我と言う事であり、俱舎論にも破我とあります。つまり我を破り、我、我と思うアタマを手放しにすることこそ根本なのでしょう。ところでわれわれ日常の行動において、どんなふうに我を働かせているのでしょうか。---結局「損はしまい、何とか得しよう」という当たり前のところじゃないでしょうか。そうしてみると、この我を破るために沢木老師のズバリいわれた「徳は迷い、損は悟り」という心がけこそ、われわれ修行者にとってもっとも具体的でしたしい用心のしどころではないかと思われます。
ある臨済の居士の人がこの「得は迷い、損は悟り」と言う言葉について、「仏法は迷悟超越、損得の分かれる以前の話なのだから、これは仏祖の言葉ではない」といわれたことがありますが、なるほどそれに違いありません。しかし実際に我々がいつも「何とか損はしまい、徳をしたい」と思って行動してしまうかぎり、「得は迷い、損は悟り」という心得こそは、まったく親切な誠めであることに変わりないでしょう。その点、本来、常無常、我無我を超えたものであると口では高尚な事を言いながら、ともすると実際に名利を持ち出されれるとすぐよろめいてしまうのでは、それこそ「大乗の円頓ころばし」としか言えないでしょうから。とにかくそんなふうに思うので、私は何かにつけてこの本師の言葉を耳鳴りせしめて、これに従い行動することに心がけています。もちろん十分にこれを実行したとは絶対に言えるものではありませんが、一分でも行じてゆきたく念願しています。
ことに「座禅の為に損することが何より大切じゃ。それを今の坊主どもは、仏、座禅、寺をすべて自分の餌のタネにして、おのれのために削り取って食ってしまうから、仏教は衰微するばかりじゃ」と沢木老師はよく言われたが、本当にうっかりすると、われわれ仏さま、座禅、お寺さえも、自分の名利のかけはしにしてしまいがちです。お互い深く心したいものがと思います。
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