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| 聴 法 録 285 |
聴法録285-1
われわれ今座禅をしている時アタマの手放しをしている。そしてあらゆる思いを、浮かぶは浮かぶに任せ、消えるは消えるにまかている。これを「いかなるかこれ仏法の大意」「不得不知」「長空白雲の飛ぶを妨げず」とーーいかによく座禅を言い表している。つまり、仏法というのは一体どういうものか。結局アタマの手放しだと言う事です。そしてそのアタマの手放しを具体的にするのが座禅だと、いうことです。また仏法というのは、「仏の覚した法」ということができるということができるでしょう。仏さまのことを覚者と言うが、覚者というのは日本語で言えば「覚めたる者」と言う事です。だから仏法とはどういうのかと云えば、「覚めた在り方」だ。そこで覚めたあり方というと一体どういうことか。これはまず「呆けた在り方」から考えなければならない。我々なんで呆けるかというと頭で呆けるんだ。一切衆生はみなアタマで呆けるんです。それではどうゆう呆け方をしているのかというと、まず、居眠り呆けがある。居寝ぶりしてボーッとしていることだ。これは呆けていることがすぐわかるから始末がいい。この居眠り呆けからサメルことは、まず、イキイキすることだ。イキイキして居眠りからすっきりとサメルことだ。ところが、始末の悪いのは煩悩呆け、瞋恚呆け、グループ呆けなどーーすべてアタマで描き出す呆け方だ、アタマがいろいろな幻影を描き出して、その自分のアタマが描きだした幻影の中に迷い込んでしまう。千葉県の船橋の近所に八幡と言うところがある。あそこらへんに大きな藪があった。その藪へ迷い込んだら、一体何処へ行くのか分からないという。それで「八幡の藪知らず」と言う言葉があるけれども、つまり、われわれ人間は、このアタマでもっていろいろな「八幡の藪知らず」みたいな幻影を作り出し、このジャングルに迷い込んでいるのが、人間の呆け方ですよ。そこで、この、この幻影からサメルのにどうしたらいいかというと、アタマの幻影で呆けているのだから、このアタマの幻影を手放しにして、サメルよりほか、サメル方法はない。つまり、アタマを手放しにしてイキイキと覚める。すると、あらゆる煩悩呆けも瞋恚呆け、グループ呆け、パッと消えるそうのがこの覚め方です。これも結局、いまわれわれのする座禅だ。座禅はあらゆる問題を手放しにして坐る。だから座禅は、居眠りしてはダメだ考えしてもダメだ。生き生きと覚めてアタマを手放しにする。これが座禅の一番大切なところです。
聴法録285-2
ところが今でき座禅と言うと、すぐ「悟り」と思う人がいる。そして、ドカンと一発大きな悟りをしとめることかと、こう思う。みんな、そんな風に言いふらしているけれど、それは本当の悟りではない。仏教というのは皆さんも承知のように、何より無常と言う事を言う。あるいは、縁起所成という。つまり、生命の実物は刻々に移り変わっていて固定した常住のものはないのだ。ダイヤモンドというのは昔から金剛不壊といって、絶対常住なるものとして引き合いに出されているけれど、なあにダイヤモンドだって炭素でできているのであれはあれは燃えるんだというものです。また、この頃の自然科学になると、素粒子とかいうんで、刻々に変化していると言う事がいちいち立証されているようだけれど、とにかくすべて無常なんです。この無常なる実物に覚めると言う事が悟りです。それなのに、既製品的な悟りをドカンと一発仕留めて事を済まそうと思う。しかしじつは、そんなことはありえないのだ。
そうでなくて、本当の悟りというのは、刻々に今ここで生き生きした生命の実物に覚めるということ以外にはない。だから、悟りを今ここに刻々修行する態度、これを「修証一如」という。道元禅師の言いたいところはそこなんだ。修行したあげくに悟りをしとめるというのではなく、われわれはいわゆるアタマで呆けているのだから、アタマを手放しをして、いまここで生き生き覚める。今ここで生き生きした生命の実物に目が覚めるという。この仏法の悟りのあり方を良く知らなければならない。悟りとは、何か神秘的なものをパット悟ると言うのでなくして、いまわれわれが呆けている。その呆けているのを覚めて生命の実物に立ち帰るという言う、この一事に尽きる。
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