|
|
| 聴 法 録 286 |
聴法録286-1
「仏法の為に仏法を修する」というのは、一体どういう事かというと、結局、いま言った通り、アタマを手放しで修行すると言う事だ。たとえば、われわれ生きたり死んだりと言う事も、ふつう、これを人間のアタマの中で考えている。それで年を取って来てから「死ぬのが怖くなった」などという。若い頃は死ぬなんてことは何も考えないでいて、年を取って死が近づいてくると、急に死ぬことを思い出して、怖くなって、「どうしましょう」という人が随分いるわけだけれどそれは死ぬと言う事をアタマの中で考えているからです。生と死と、いずれも頭の中で考えている。そして「生きているのが死ぬんだから、苦しいに違いない」と、こう考えるわけだ。つまり、アタマの中に描いた幻影の中で生死を考え、その中に迷い込む。それが怖い、怖いと思う。ところが本当はそうではない。生きたり死んだりというのは、このアタマの中の出来事ではなくして、人間の思い以上の出来事なのだ。アタマの手放しのところで行われることなんだ。 結局、「生命の実物」は、アタマの手放しであるが故に、いまここでアタマの手放しの修行すると言うことーーこれが「仏法のための仏法」ということです。けっして、アタマの思いの実用のためにアタマの手放しを修行すると言うことではない。もし、アタマの実用の為に修行するというのなら、これは全く見当が外れている。座禅すると体が丈夫になるからとか、あるいは度胸がつくから、胆力がすわるからとか、人間的実用のために座禅修行しようとするなら、見当が違う。
聴法録286-2
いま外人たちが沢山座禅しているけれど、何よりこの「仏法のための仏法」ということがけが、まだ分からない。それで、何か人間的実用のためになることだけを望んでいる。そうではない。本当に仏道と言うことは、ただ仏法のための仏法だ。われわれ何を最高価値とするか。人間のアタマで考えた何かを最高価値にしているのなら大違いだ。人間のアタマで考えたものでなく、アタマを手放しにしたところが最高価値だ。それが仏法のための仏法と言うことですね。これが本当によくわからなければならない。私はいま外人たちに、これだけをよく分からせたいと願っている。ところが、今のいわゆる植民地老師たちは「仏法のための仏法」と言うことを伝えようとはしていない。そして外人たちが食いつきそうな何か面白い餌を持ち出してくるもの。それで借金取りを一挙に退散させてしまうような一喝ーー座禅するとそういう一喝ーー座禅するとそういう一喝が出てくるんだというようなこと言う。けれども、そうな座禅をいくらやっても本当の座禅ではない。本当の座禅というのは、そういうそういう人間的価値のためのものでない。人間のアタマで価値があると思ったものは、全て本当の価値ではない。そうではなしに、アタマを本当に手放しするという。そのことが生命の実物であり、この生命の実物こそ最高価値としなければならない。
|
|
|