本文へジャンプ
             聴  法  録  288

聴法録288-1
うっかりすると、
われわれいつでもアタマで考えた、作り物を最高価値にしている。いや、うっかりするとじゃない。世間の人なんか、呆けづめに呆けている。それで、金を最高価値にする。名誉地位を最高価値にする。そんなものをばかりを最高価値にしているにしているじゃないか。そうではなしに、いま修行者たちは、どこまでもアタマの手放し、これを最高価値にする。そして、うっかりすると、それを見失うから、見直し見直し、どこまでもやってゆくことですね。これが「座禅こそ本尊である」ということです。それから「正師」というのもそうです。「正師にあわずんば学ばざるにしかず」と言う言葉があるけれど、それでは一体正師とは何か。人間がアタマで考えて「あっ、この人こそ正師だ」と思ったら、どうせ間違うんだ。それならば「この人こそ正師」だと思う「俺の考え」を信用しているのにすぎない。正師というものは人間であるべきではない。アタマを手放しにする座禅だけが正師であるべきだ。そこのところをはっきりさせて、間違わないようにしなければならない。私は弟子たちに対して、「俺が正師だ」といっぺんもいつたことはない。はじめから座禅が正師、お互いに自分自身がする座禅だけが正師だと言ってきている。沢木老師が亡くなってから私は法益するようになったけれど、これは配役としてやっているだけだ。だから私が正師で、絶対的に正しいなんて、そんなことは言いはしない。正しいと思うか思わないかは、そちらさんの思いでしかないもの。だから正師というのはそういうことではなくて、各自俺がする座禅、アタマの手放し、これが正師だ。この「座禅こそ本尊であり、正師である」ということ、これを見失わないようにしたい。