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| 聴 法 録 289 |
聴法録289-1
仏教の大局は何かというと仏教というのは、無常、無我の教えだ。アタマの手放し、−−無我の教えが仏法の根本だ。そこでまず「得は迷い、損は悟り」というそこが大切です。まず、人情世情からいえば、いつでもモノタリヨウ、モノタリヨウとして、自分が物足りさえすればいいと思っている。ところが、仏法はそうではない。物足りぬままと言うことが大切だ。その「物足りない」というのがもう一歩進めば「得が迷い、損は悟り」ということですね。積極的に損をすると言うこと。ーーこれも「損が大切だぞよ、だから・・・・」と言って人に金を出させて、自分がそれを集めて回っちゃだめだ。それじゃあ、こっちが儲かっちゃうもの。そうでない。これもただ自分に当てはめて、「得は迷い、損は悟り」とまず自分が出す。積極的に「我を破る」ために、これほど具体的なことはないね。具体的に金をパッと出すと言うことは、まず、「我を破る」これが「得は迷い、損は悟り」です。その点「生来の自分」ということと「本来の自己」と言うことを、これをはっきり分けて考えるべきだと思う。われわれはいつも「生来の自分」ばかりを考えているけれども、この「生来の自分」を一皮めくったところに「本来の自己」がある。「生来の自分」というのは、いわゆる業識的な自分であって、いつでも物足りよう、物足りようとしている。人間と言う生物は、フギャーと生まれた時から、もうちゃんとアタマを持っているもんだから、そこに幻影を書き出して、その幻影の中に迷い込むという業を持っている。これが生来の自分です。ところが、それを本当の自分と思っていると大違い。大切なのは、そういう生来の自分、そういう業をもう一つはぎ取ったところにある。はぎ取るというのはアタマを手放しにしたところで、ここに本来の自己があるんだ。「父母未生巳前本来の面目」という公案もあるけれど、そうすると「本来の面目」というなにか特別なところがあるんじゃないかと思うけれどそうではない。なに、アタマの手放しをしたところが、そこなんだ。何も特別な神秘的境界でない。アタマを手放しにすれば、それが本来の面目だ。そのアタマを手放しにしたところにある本来の自己においては、この私を生かしている力と、あの風を吹かしている力と、これはぶっ続いている。あの風を吹かせる力が、私をこうして呼吸させているんだ。これはまあ、しょっちゅう言っていることだけれど、これだけをよくよくふり返るべきだ。
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