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| 聴 法 録 290 |
聴法録290-1
ふつう人間は、俺、俺といって「俺のアタマ」でもって生きているいるのだと思っている。俺のアタマが管理していればこそ、こうして生きているんだと思っているけれど、それは大違いです。「俺、俺」って考えてやっていることと言ったら、本当にわずかな範囲です。お湯を飲もうとして、これを飲む。たしかに思ったように飲める。喋るというのも、大体私は思っていることを喋っている。ところが、人間のアタマの言うことを聴くのは、せいぜい手足と舌ぐらいのものだ。胃腸となると、もう言うことをききはしない。いわんや心臓とか肺臓とかいうのはもう言うことききっこない。呼吸しているというのも、私が一生懸命呼吸しているのでなくて、寝ている時はアタマを手放しだものね。寝てる時も一生懸命呼吸しなければならないと思っている奴はいないだろう。事実、アタマを手放しのところで呼吸しているんだ。それではアタマ手放しのところで呼吸しているんだ。それではアタマを手放しのところでしている呼吸は俺じゃないかと言うと、事実俺なんだ。そうするとアタマ手放しのところにも呼吸しているという。これが「本来の自己」ですよ。
道元禅師が正法眼蔵のなかでいつも強調しているのは「尽」と言う言葉です。「尽十方界」とか「尽一切」とか「尽大地尽衆生」とか、あるいは「尽地尽界尽時尽法」というように、道元禅師は、本当にたくさん「尽」と言う言葉をつかわれる。要するに、全部をひっくるめたと言うことで、それが俺の生命だ。「自己のいのち」というのはすべてとぶっ続いていると言うこと。アタマのなかじゃ、この俺だけが俺だと思っているのだけれども、アタマを手放しにしたところでは、すべてとぶっ続いていると言うことです。
聴法録290-2
このぶっ続きの生命というのが、なかなかわからない。本気でそうだと思えないですね。私も坊主になり、ずっと座禅修行して三十何年になったわけだけれども、俺と言うものがすべてとぶっ続いていると言うことだけは、だんだんはっきりしてくるようだ。座禅と言うのはいくらやっても何にもならないけれど、しかし、やればやれほど、あらゆる物事が他人ではないと言うことだけは、だんだんはっきりしてくると思う。まあやってごらんなさい。座禅して、アタマを手放しにしている事だけ一生懸命やっていると、すべてとぶっ続きだと言うことだけがよくわかってくる。
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