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             聴  法  録  291

聴法録291-1
人間死んでどこへ行くか。なに、どこへ行くんじゃない。もう天地一杯なんだ。生まれてくると言っても、なに、天地一杯から来るんだ。だからどうせ天地一杯なんですよ。われわれどうせ、だれでもかれでも天地一杯思っても思わなくても天地一杯。それだのに、このアタマだけが、この個体だけが俺だと思い込んでいるんだ。そう思い込んでいるいるんじゃしょうがない。そうじゃない。思っても、思わなくても、天地一杯ですよ。どうせ、こうして生きていると言ったて、葉っぱを食った、ゴボウを食った、大根食った、メシ食ったと言って、そんなものが寄り集まっているのだから。それでこういう皮肉骨髄なんかで一応まとまってあるようだけれど、実はこれ皮膚からも熱や水分も発散してるのだろうし、また、養分も光もとっているのだろうしね。これ出入り自由なんですよ。本当は、天地一杯ですよ。死んでどこへ行くんだと言ってね。なに、天地一杯のところへ帰っていくだけだ。だから死ぬと言うことを、新帰元と云うんじゃないか。どうせ天地一杯だ。その天地一杯というのが、「本来の自己」です。ところで、この天地一杯と言うことは、「ただしアタマの考えることは除く」というものではない。アタマで考えることも、もちろん「本来の自己」の一作用です。しかし、われわれがアタマで考えるというのは、無いことも考えることができるんですね。「きのうは何した」とアタマで考える。だけど昨日はもはや去って、今ここにありはしないでしょう。それをアタマで考える。またあしたのことを考える。だけどこれはまだ来ないので今ここにありはしないのだ。ありもしないことをアタマは今ここで考える。これが幻影です。ところがいま座禅するというのは、この幻影を幻影として見渡していること、幻影だと知っている事なんです。
しかし、われわれ生きている限り、思っても思わなくても、死んでも生きても、本来の自己なんだけれども、それと同時に、さまざまな幻影を描き出すところの業をもった、生来の自分からも離れることは出来ないと言うことも事実だ。そうすると、人間と言うのは、生来の自分と本来の自己とのカネ合いの中にあるのだと言うことが出来る。


聴法録291-2
そして、生来の自分から見れば、本来の自己というのは、これは向かう方向としてあるのだから、これが誓願と言うものだ。「衆生無辺誓願度」これは、ぶっ続きの生命として、落ちつくところへ落ちつきますようにと言うことです。「煩悩無尽誓願断」これはそういう幻影に引きずり回されないようにと言うことですね。しかしながら人間にアタマがある限り幻影を描くんだから、そこで「法門無量誓願学」と、そういうことがはっきりわかるように・・・「仏道無上誓願成」落ち着き場所に落ち着くようにと、こういうことですですね。つまり本来の自己として、落ちつようにと、これが誓願です。「大乗起信論義記」に「衆生の真心還って自ら衆生を教化する。これ仏の誓願なり」あるけれど、誓願と言うのは何か特別にアタマで考えて向うに描くことではない。衆生の真心、本来の自己、それがもう誓願なんだ。だから、生来の自分から、本来の自己を見れば、これは誓願として現れる。