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| 聴 法 録 292 |
聴法録292-1
ところが今度は反対に、本来の自己から、生来の自分を見ると、生来の自分というのは、本当はこうあるべきなんだと言いながら、実はそれが実現していない。業と言う手カセ、足カセにはめられているから本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。その限りそこに懺悔という面が必ずある。なければならない。この誓願と懺悔と言うのは本来の自己と生来の自分とのカネ合いのところに当然出てこなければならない、それを一方的な話をしたら、どうせ間違っている。
たとえばふつう坊さんの話は「いいお話」ばかりが多すぎる。ところがそういういいお話ばかりと言うことは、どうせ間違いだ。自分に当てはめて見れば、そんないいお話ばかりである筈はない。そのいいお話がなかなか実現できないできないんだという、自分がそこになければならないと思う。だからいいお話と同時に懺悔のお話が伴わなければ、どうせウソです。坊さんの話がぴんと来ないのは、そこだと思う。その点私の話がわりに欠伸しないで聞いてもらえるのは、私はこういう「いいお話」すると同時に、俺は実はそれが出来ないという、こういう面をさらけ出すもの。それで申し訳ないという、この懺悔の気持ちを同時にさらけ出している。そして、懺悔すると同時に、いよいよ誓願と言うことも烈々として燃え上がる。その点、座禅人としては、この誓願と懺悔という両極、これが必ずなければならない。誓願行と懺悔行、これが二行ですね。
聴法録292-2
「一座二行三心」と言うことがある。それをよく知らなければダメだ。それでその中の三心と言うのは、この生来の自分において、いかに本来の自己を働くかと言うことですね。この働き方に三心と言うのがある。
まず「大心」ということ、これはアタマの手放しをして、あらゆる比較分類をしないこと。たとえば、仏教で「大」といったら、大と小と比較しての「大」ではない。どんなに大きなものでもそれが比較の上で大きいというのでは本当の大ではない。それで今仏教で言う「大」とは、そういうあらゆる比較を絶して、比較分類するアタマを手放したところ、それを大と言う。そして、アタマを一切手放しにした時、これが大心です。そうすると、どっちへどうころんでも「尽十方尽一切自己」だ。どっちへどうころんでも、私は自己ぎりの自己を生きる、これが大心です。小っちゃな自分のガマ口だけを大切にしているような考え、そんなのはどうせ小心だ。どっちへどうころんでも俺を生きる。これが大心というものです。
そこで、どっちへどう転んでも私なんだから、どっちへどう転んでも私の生命を大事にするという、これが親心、どっちへどう転んでも親心をもって出会う、これが「老心」ですよ。ところが、この親心をもって出会うという本当のオタナの精神、もっと一切に及ぼされたのが「三界はわが有、その中の衆生は悉くこれ吾が子」という精神です。一切に思いやる心、ゆきとどく心だ。私じゃない、そちらへゆきとどく心、これが老心というものです。
それでそういう中に本当の生きがいを見いだしてくる。生きる情熱を持つ。生きがいと言っても「ああ嬉しい」なんて言う感情的なものでない。親心をもって一切と出会うところに真の生きる情熱をもつ、これが喜心と言うことです。喜心・老心・大心と、これが三心だ、座禅人はどうしても座禅のうらに誓願と懺悔、喜心と老心と大心という二行、三心を持つのでなければならない。座禅していれば、とにかく俺は安穏という、そんな座禅ではだめだ。一切衆生は愚図っているのだから、この愚図っている一切衆生が本当に落ち着き場所に落ち着けるように働こうという。そういう誓願を根本に秘めている座禅でなければならない。だから誓願が根本です。
所がそう言いながら、なかなかそういかないというのが懺悔です。そして、この誓願の働き方が喜心・老心・大心の三心ですね。 |
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