聴  法  録  293

聴法録293-1
仏法としての誓願「伝法救迷情」という誓願だ。どっちへどうころんでも自己ぎりの自己を生きる。尽十方界自己が本当に「衆生無辺誓願度」という誓願のもとに伸びてゆくわけですから。だから「尽十方界自己なるが故にしかあり」だ。
私の弟子たちも、これからどういうふうに働いていくか知らないけれど、どうせ踏んづけられたような生活を、十年でも、二十年でも続けてゆくという覚悟はしなければならない。その踏んづけられた生活の中で、生命を失ってはダメだ。生命を失うというのは誓願がないからだ、誓願さえあれば、どっちへどうころんでも俺の生命。このどっちへどう転んでも自己の生命を本当に生き抜くんだという誓願がある限り、どんなに踏んづけられていても、いつか必ず春が来る。春が来たら伸びるという力がある。これが生命力というものだ。これは決して野心とは異なることもよく知っておいてもらいたい。だから私は誓願と言うことは非常に大切だと思う。難しいことは言わなくていい。この四弘誓願ーーとにかく誓願だけは大切だ。


聴法録293-2
「天座教訓」の中に「自らを見ること他の如くなる痴人あり、他を見ること自の如くなる君子あり」と言う言葉がある。その点、今はしらけの世代と言うけれど、自分を見るのに、他人のように冷淡に、しらけている奴があるね。これは本当に痴人だ。そうじゃない。本当は他人と言うものはないんだ。他人も自己なのだから、どっちへどう転んでも自己だただ自己を生きるのだ。それで「他を見ること自の如くなる君子あり」この自己ぎりの自己を生きると言うこと。人に出会うことも、その人との出会いにおいて俺が生きる。ブーバーと言う人は「我と汝」と言うけれど、なに、俺という血の通った他者として、出会うことを「汝」という新たな言葉で言っただけなんだ。 その根本は、あらゆるものに自己の血を通わせると言うことで、この態度が大切だ。
しかも、自己を生きるのはどこまでも自己なのであって、その点よくなるのも悪くなるのも結局、自分持ちだ。「俺が悪くなったのは環境が悪かった、育ちが悪かった、」「あの人がああしたから悪かった」。そんなこといくら言ってみたってしょうがない。結局、修行者の根本的態度としては、俺は俺を生きると言うことだけが大切です。惚けて生きるのも一生なんだし、覚めて送るも一生だ。惚けたままで一生送ると言うの、これはつまらない。本当の意味で覚めるのだと言うことを、いつも自分に言い聞かせ言い聞かせ、やっていくのが、これ道心と言うものです。それで「向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと」と、時々自分持ちじゃない様な顔をしている奴が来るからね、そういうのをよく気を付けなければならない。