聴  法  録  294

聴法録294-1
自分は一人だと言うことは、誰だって認めているわけですけれど、それでいて、おたがい「自分は一人だ」と言うことを実践している人は、まったく稀でしかありません。いっも「勝った負けた」「得した損した」「愛する嫌う」など、そういうことだけで生きている人は、早い話がけっきょく「二分の一の自分」だけしか見ていない人です。「相手に対する自分」でしかないのですから、勝っても負けても、得しても損しても、「二分の一」です。そういえば、あなあなたが何だってそう、自家用車を欲しがるのか・・・・それが今の時代が、マイカーを流行させているからでしょう。とすれば「自家用車がほしい」「無理しても買いたい」と言う、あなたの欲望は、あなたはなんだってそう「一人前の自分の」欲望のでいらっしゃいますけれど、じつは「流行」があなたに、そう欲望させているだけなのであって、つまりあなたは「現代流行分の一」ですね。あなたの「自己」は「現代流行分の一」の人間でしかないのです。私たちのところへ座禅に来る人で、京大の人類学科の大学院の学生の人がいますが、このまえ人類学科と言うのはどういう学問かと訊いたら、このあいだまでアフリカへチンパンジーの研究に言っていたと言います。「へえ。チンパンジーと、人類学と、どういう関係があるのですか」ときいたら、動物学上、チンパンジーやゴリラと人間がどの辺から分かれたかと言うことを、研究しているそうです。なるほど「人類」と言う
動物の研究なので、人類学なのでしょう。してみれば人類学から見ている人間は、「人類分の一」の人間しか見ていないわけです。またよくわたしたちに「あなたがた、結婚しないですか。それは不自然ですね。人間に性欲があるのはあたりまえでしょ」なんて、オスとメスとの関係を絶対真理のように言う人もありますが、これもオスとメスと言う「動物分の一」の人間しか見ていない、と言わねばなりません。
私は別に絶対結婚しまいとは考えていませんが、ぜひとも結婚せねばならぬとも考えていません。そこはどこまでも「一分の一」の「自己」で行きたいのです。「一分の一」イコール「二分の二」だ。
細君をもらったら、細君はオレ、オレは細君と言うところで行きたい。細君といつも夫婦喧嘩をしながら、おたがいは内緒でよろめきながら・・・・「二分の一」の自己なんて言うのは、まっぴらです。
「一分の一」イコール「二分の二」イコール「三分の三」イコール「四分の四」・・・・僧というのは、職業名ではなく、もともと「和合衆」という意味です。ここに三人、四人の修行者が集まって、おたがいに誰のおもわくもよく思いやり、助け合って、仲よく和合し修行していくのが、僧というものです。
さらにこれが延長されると、自己は「一切分の一切」となります。
「一切分の一切」の自己とは、今の社会に生きている限り、社会の隅々まで思いいたる自己と言うことでなければなりません。
「一切に思いいたる」とは、「思いやりの心」をもち、「いたわりの心」を持つことです。「思いやり、いたわりの心」をもって、すべてに通じている自己こそ、「一切分の一切」・・・・真の「一としての自己」だと言うことが出来ます。
仏教ではこれを、慈悲心大悲心と言いますが、それは生きとし生けるものは、生きてる限りだれでも、深い悲しみ、愁いを持っております。この深い悲しみ愁いを、ともに悲しもうと言う心だから、慈悲心、大悲心などと、悲の字を使うのです。もっとわかりやすくいえば、「一切に思いいたる心」は「一切への親心」であり、「出会うところわが生命」とする心です。「宇宙一杯の心」ともいえましょう。
とにかく物に対しても、事に対しても、人に対しても、出会うところすべての内に、わが生命の続きを見出し、わが生命として働く心なのであって、こうした「一切に思いいたる心」「一切にゆきわたる心」において、はじめて先に申しましたような、「はっきり自己を持てばこそ、社会のリズムとも自然にあっているような人間」であることができるでしょう。もはや単に処世の技術としてでなく、もっと深いところから根本的にそうであることが出来るでしょう。
だから「自己を持つ」と言うことは、「我を張る」と言うことではなしに、実に慈悲心に満ち満ちた人間となることであり、仏教の言葉で言えば「一即一切、一切即一」の自己たることです。われわれとしては、ぜひともそのような自己を持った人間であるように、つとめたいものだと思います。