聴  法  録  302

聴法録302-1
キリスト教は、いかなる年少の物にも彼一人の思考で理解しえるほど明瞭なものである。ただ、本当はそうでないのにキリスト教徒らしく装い、そしてキリスト教徒と人からいわれることを欲する人たちだけが、理解し得ないのである。

仏陀は言った。「自らを宗教に捧げている人は、暗い家の中に光をもって入る人に似ている。 暗闇は忽ち裂かれて明るくなる。聖賢の道を求めることに於いては執拗であってもいい。
真理の啓示得るためには貪欲であっていい。貴方の心の中を必ず十分の光が隅々までを照らすようになるだろう。」

キリストが「富貴なるが故の盲目」と名づけた所の状態から解放されている民衆、日々の貧しいパンに満足し、巣をつくることも穀粒をついばむことも出来ない様な小鳥にも神が与える程の僅かなものだけを神に願う民衆ーーかくの如き民衆は、現世の欲望と煩悩とに憂き身をやつしている他の人々よりも、遥かに多くの真実の人生に生きそして心の生活を送っているものである。それでこそ、いろいろの勇ましき行為や自己犠牲は、彼等の中に即ち民衆中に求めることが必要なのだ。民衆を考慮に入れなかったらー大きな義務の契約はどうなるか。まことにそれによって社会が維持され、まことにそれによって一国の偉大と権力が成り立っている所のものはどうなるか。国に衰退の兆しが来た時、それを更新し復活せしめるのは民衆でなくて誰であるか。国の病気が癒えがたくそして死滅が免れがたいとしたら、古い枝に代わるべく運命づけられた若々しい芽は、民衆の中から出なかったら一体何処から生え出るであろうか。そしてその故に、キリストは民衆に向かったのである。そしてその故に、民衆はキリストの中に神の使命を知り彼の名を讃え彼の力に服し、彼の力を声明したのである。貴族や僧侶や学者たちは彼を呪術しそして殺した。しかし彼等の圧制や狡猾にもかかわらずそして死刑執行にもかかわらず、キリストは民衆の中に勝利を得た。民衆はこの世に彼の天国を基礎づけた。そしてキリストは、民衆の中に広がり進んで行くであろう。民衆の中には新しき時代が生まれるであろう。更に自らの終末が近づいてきたことを知り恐怖に捕らえられていた過去の権力が、押しつぶそうと願った神の幼芽が、生まれるであろう。

二つのそして何れも危険な迷信を警戒することが必要だ。その一つは、神の本質を言葉でいい現わし得るとするものである。他の一つは、神の力を科学的な解剖によって証明し得ると考える科学の迷信である。

キリストが最後になした命令は、彼のすべての教えを言い表している。「私がお前たちを愛したようにお互い愛し合へ。そして後、もしお前たちが互いに愛を持ちあえば、お前たちが私の弟子であることをすべての人は知るであろう」彼は
「もしお前達がそれを或いはこれを信じたら」と云わずに、もしお前達が愛したら」と言った。信ずると言うことは、経験や知識が進歩してゆくと共に進展しそして変化してゆくものと結合している。信ずると言うことは、時と結合しそして時とともに変化してゆくものである。愛は、時と関わりがない。愛は不変でありそして永遠である。

私の宗教とはーあらゆる生きとし生けるものを愛することである。

キリスト教精神の体得には、ただ自分の邪欲を亡ぼすだけでは不十分である。