聴  法  録  305

聴法録305-1
他人に対して、その人達の神と世界とに対する関係を決定してやる権利が自分にあると考えている人間たちがいる。そして又、そういう権利を他人が持っていると考え、その人達の言うことを盲目的に信じている人間達がいる。後者に属する人間たちは、途方もなく多い。

あらゆる宗教的な疑問は証明さるべきであり、全ての宗教上の法則が打ち立てられなければならないと言うことを知るとすぐに、それらの証明と樹立のためにつくしている他人の手へ、自らを一任してしまう人々がいる。他人が、そんなに絶対的な態度で、そんなに決定的に知っている事なら、 どうして苦労する必要があろう。こういう人々はただ、いつも自分は満足と悦楽の中に日を送り、そして一生の間気持ちいい夢を結びながら、陽気に生活してゆきたい人々である。こういう愚かな満足を求める結果として人々の間に知識に対する先進的な努力の欠乏があらわれて来るのだ。宗教上の独断主義が生んだ鉄の軛の押し印が、長い間私達の首の上に残っていることを、私は恐れるのだ。

人が自分の道徳上の義務を拒絶した時から、人が自分の内心の声によってではなく、ある階級あるいは仲間の利益によって自分の義務を限定するようになった時から
、人が自分が何千万という中のただ一人に過ぎないからという理由で、自分の一個人としての責任を振り落としてしまった時からーその時から彼は、自分の道徳力を奪われた人間となる。その時から彼は、ただ神のみが為し得ることを人間から期待する者となる。その時から彼は神の力の場所へ人間の浅智慧の無礼な武器を置く者となるのだ。

自分を教師と名乗ることは出来ない。何故なら私達には一人の教師しかいないそれは内在する真実の神である。そして私たちすべては、家族であるのだ。

人は、過去の聖賢から彼に送られたところの贈り物を利することは出来る。しかし自分の判断をもってその贈り物を調べ、あるものを取りそして他のものを捨てると言うことは、彼自身がしなければならないことである。あらゆる人々は、世界と神とに対する自分の関係を自分で打ち立てなければならないのである。