聴  法  録  306

聴法録306-1
信仰は、精神の平和を与える。

神に従うことが必要である。自らを大秩序の中にあらしめよ。そしてこの世の混乱を解き裁くことは神に任せよ。破滅を来たらしよ。或は不死を来たらしめよ。そして来なければならないものは、来るのであろう。そして来るものは、恵みであろう。人生の道を成し遂げるためには、人間にとってすべてのものの善を信じること以上に、必要なことはあり得ない。

宗教は、善人を作ることより以上の高い目的もってある。宗教は、善人は更に存在しているいると考えているのだ。
宗教の重要な目的は、この善人を、高い理解の段階へ上げると言うことにある。

二つの平和がある。一つは消極的な平和である。それは困惑させるような喧騒が消失しただけである。これは争闘の後の平静であり、嵐の後の平静である。しかし他の一つの平和がある。
それは更に完全な精神の平和であり、この平和に対して、第一の平和はただ先行するにすぎないものである。それはすべてのものを理解した神の如き平和であり、まことに「神の国は我が内にあり」と名づけ得られるところうの平和である。かくの如き状態の中にある精神の平和は、私達に宗教を与えてくれる。これは神及び宇宙との意識下に於ける合一である。あらゆる存在するものとの愛の結合である。すべての清浄なるものと純白なるものに対する愛である。

自分の欲望と利益とを犠牲にする知恵である。宇宙の精神と生活への参加である。尽きざる源泉を持つ根元との全き調和である。かくの如き平和の中に、人間の幸福があるのだ。


友よ、何故に存在の神秘について思い煩っているのか何故に困難な思索によって神霊を苦しめているのか。幸福に生きよ。喜びの中に時を送れ。死に臨んでも誰もお前に、何故にこの世がかくのごとくあるのかと言うことを尋ねはしないであろう。朝を見よ。起きよ、若者、そして暁の喜びを呼吸せよやがて時が来て、この虚妄の世に於いて私達をあんなにも驚かした所の、人生のこの一瞬を、お前がいかに求めても得られないことになるであろう。朝は、闇の覆いを取り除けたー何を嘆く事があるのだ。起きよ。朝を称えよう。何故なら多くの朝は、更に私達の中に呼吸が途絶えてしまった時にも、なを力強く息づいているから。


かく言われている。即ち最後の日が来た時大審判開かれて、善良なる神が憤怒するのだと。しかし善そのものからは、善以外の何物をも生じることは出来ない。恐れることはない。最後の日には喜びが充満しているであろう。信仰の相違は、人類を七十二種類の民族に分割している。―彼等のすべての独断の中から、私はただ一つのもの即ち神の愛をえらんだ。

善き人間とは誰の事か。ただ宗教的な人間のみが善き人間である。しかし善とは何であるか。何より先に重要なことは、良心(智慧)と意志との調和である
もし私が正確に心の中から次の如く言うことが出来たとする。「天に於けると同じく、地上においてもまことに神の意志は存在する。即ち永遠の世界に於けると同じく、この一時的な
人生においても存在する」と。その時、私にとっては不滅と言うことに対するいかなる確信も証明も必要でない。私は、永遠の存在の意志を称えつつその意志に自らを任せているのである。私はその意志が愛であることを知っているのである。―私にとってそれ以上の事があるだろうか。キリストは死に臨んでいった。「神よ、彼方の手に私の魂をお任せいます」かくの如き言葉のすべての意味を理解してそしてそれを口にし得る者にとっては、それ以上の何ものも必要ではない。信仰―真実の信仰は、全てのものを解決する。
この信仰を持つためには、それを自らの中に於いて養うことが必要である。
そしてそれを養うためには、信仰の仕事を作ることが必要である。信仰の仕事の本質は、大きな行為の中にあるよりも、小さい事象の中にある。おそらくそれは目を引く事もない。ごく些細なものであるだろうが、特に神のために創られた事象であるのだ。
パスカルは言った。「死は独りに来る。そして人々の前における独りではなく、神の前における独りとして生きることが必要である。」

信仰なくして精神の平和を発見し得ると考えてはならぬ。