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| 聴 法 録 31 |
聴法録31-1
真の信心と言うのは、限りなく遠い存在であり、決して私にあるはずのない仏に今ここに私に於いて、私に即して出合う、発見すること。そういう出会い「目覚め」が、そういう私の体験が信心だと思う。
親鸞は、信心を二通りに言っている。人の話を聴いて、やっぱり私たちは仏法を学ばなければならない、やがて死んで逝くんだから、死に対して何かを勉強しておかなければならないと、思った時に、仏教の学びが始まる。それは何かを当てにして信じることからスタートします。それは人の言葉を、その教えを信じるのです。しかし、これは信心と言ったて「目覚め」ではないんです。思い当っていないのです。知的にわかっているだけです。例えば「父の恩は山より高い」と言う場合その話をまず聴かなければならない。その聞いた話が具体的な人生生活の中で思い当ってくる「ああ、そうか」と思い当る「目覚める」と言う世界が本当の意味の信心なんです。だから信心と親鸞が言っているのは深い意味を持っているのです。
知的に概念的に知ることと、体験的に、経験的に知ることとの違いを言うんです。この深まりが仏教を学ぶと言うことです。
信じると言うことは、何かが見えてくる「目覚めてくる」ということですが、目覚める、何かが見えてくると言うことは、人格的には、何かが、どっかで変わっていくことだと思う、変わると言うことは、皮が取れてそうして何か内なるものが育ってくる。こう膨らんで成長していくと言うことだと思う。信じると言うことは、見えてくる、解ってくることである。その解ってくる、見えてくると言うのは、何らかの意味で人間改革が生まれてくることで、皮を脱ぎ、そして成長していくと言う、そういう一連の私の生き様に、影響をもたらしてくるものである。すなわち、人格の根本を育てていくと言うものが信心の本質だと思う。
信心という時にとかく私たちは、神様、或いは、仏様と私と言うふうに、二元的にとらまえ勝ちですが、仏と言うものは、私を離れて私の外に二元的に捉えられるべきものではない。 |
聴法録31-2
孤独とさみしさと悲しさを感じるとき、外に解決をもと見てはなりませぬ。我が内なる如来に求めなさい。共にいるぞ、そばにいるぞと呼ぶ如来に頼りなさい。苦しみや、悲しみがあなたを悩ますとき、その解決を外に求めてはいけません。あなたの親であり、主人であり、先生である、内なる如来に祈りなさい。必ずあなたにあった方法で答えてくれます。信じて下さい。
大いなる「いのち」と大いなる光は、私の内に如来として私のために内在したもう。
山も川も鳥もけものも法のくに
一如に見えて心ほのぼの |
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