|
|
| 聴 法 録 313 |
聴法録313-1
真実の生命の教えは、人間と神との直接の交際を打ち立てるものである。
もしあなたが、真実の生命の性質の最も本質的なものは何であるかと尋ねたら、私は、それは人間の魂が偉大であることに対する彼の信念であると答えよう。基督は、人間の中に神の反映と神の形象とを見たのである。その故に基督は人間の贖罪に渴し、そしていかなる性質の者でもすべての人間を愛したのである。基督は、物資的な覆いを突き抜けて見る目で人間を見たのである。肉体は基督の前では消えてしまった。基督は、富める者の衣服を通してそして貧しき者の衣服を裂いて、人間の心の中を見たのである。そして基督は無知の闇黒と罪の泥酔との中にも、人間の心の不滅的な性質と無限に発展し得る力と完成との萌芽を発見したのである。最も低き所まで堕落したもの、最もひどく腐敗した者の中にも、基督はこの世の天使に転じ得る所の本質を見たのである。
ある民族全体にとても、個人にとってもさうであると同じように、偏見から解放されることが直ぐに修得上の障害を少なくしてくれるものではない。それはただ悪しき障害物を、より以上に尖鋭な障害物に代えるだけである。多くの悲しき魂は、ここに於いて自らの支持を失ってしまうのである。しかしこの事には、悪いことも或るいは危険な事もないのだ。これはただ成長である。子供は、一人で歩くことを学ばねばならない。今までの習慣的な迷信を奪われると、人間は最初、自分を、道を失った孤独なもののように感じる。しかし、こうして彼から外部的な支持物を取り上げると、彼は自分の内面に追い込まれてやがて自分をしっかりと把握したことを感じるのである。感じるのである。彼は、自分が偉大な神の存在の目の前にいることを感じる。彼は文字によってではなく、自分自身の魂をもって、十戒や聖書や使徒書を読む。そして彼の小さい礼拝所は、偉大な天国の殿堂にまで広がるのである。
ある人の神の認識は学理的である。かくの如き認識は零弱であり危険な過失に落ちやすい。ある人の神の認識は信仰から流れ出る所の特性的なものである。かくの如き認識は、高き道徳を与える神の性質をのみ考える。かくの如き信仰は、真実でありそして真実以上のものである。
道徳的な生活を求めるだけでなく、道徳以上のものに向かって邁進せよ。
貴方と神との間にあるすべてのものを恐れよ。貴方の心の中に巣くっている所のいろいろの幻影や心像を恐れよ。
|
|
|