聴  法  録  315

聴法録315-1
道徳上の悪の中、戦争を生む所の悪の大きさは計り知ることが出来ない。

すべて若い人々は、次のようなことを信じなければならないことになっている。即ち、高貴と偉大とは、自分自身の意欲を捨て去って他人の意志をとげるための武器となり、人を殺し或は人に殺され、飢餓や雨露や寒暑のために、悩み、不具になってもそれが何故であるかと言うことを知らず、約束や偽りだらけの事、例えば死んでしまってからの不滅や、新聞記者が暖かい部屋の中に腰を下ろして、ペンの先で勝手に与えたり奪ったりしているような光景を、報酬をもらって満足していることの中に成り立っているものだと言うことである。鉄砲の音がする。彼は傷ついて倒れる。同僚たちは靴で踏みつけて進んでゆくので、そのまま死んでしまう。未だ半分生きていたその兵士は汚され、そしてそこで不滅の死というありがたい称号が贈られるのだ。同僚も親戚の者も彼の事なんか忘れてしまう。そして彼が、自分の幸福も自分の苦悩も自分の人生も何もかも捧げた所のその御方は、彼の事などは全然ご存じないのである。そしてニ三年も経ってから、誰かが彼の白骨を探し出すとその白骨をもって英国風の靴墨が作られて、彼が属していた軍隊の将軍の靴がそれで磨かれるという寸法である。

戦争は、人々が人間であることをやめて、兵士になるように教育するものである。兵士と言うものは、慣習的に社会から隔離している。兵士の最も重要な感情は、上官に対する奉仕である。上官と言うものは、兵営内で専制主義を教育することに全力を盡している。専制主義というものは、自分の目的を、暴力を以って達することである。そして隣人の権利を玩具と考えるものである。兵士たちの重なる満足は、嵐のような冒険であり、危険である。平和な労働には、兵士たちは背を向けている。戦争はまた戦争を生む。そして戦争は果てしなく続くものである。勝った国民は、自分たちの成功に陶酔してまた新しい勝利に向かって進もうとする。一敗地に塗れて苦しむ国民は、自分たちの、名誉と損害を取り戻そうとあせる。互いに傷つけあって怒り狂っている国民たちは、互いに相手の破滅を願い、病気や飢餓や欠乏や動乱が、敵国に生じることを喜ぶ。何千人という人間を殺すことは、この国民達の間では苦悩を感じさせる代わりに勝ち誇った喜びを呼び起こす。町々はイルミネーションの光で輝き、国中の至る所でお祭り騒ぎが始まる。
かくして人間の心は荒んで、邪悪な欲念が養はれる。人間は、同情や人道的な感情から引き離されてしまうのである。

基督は何処にいるのだ。彼の教えはどこに行けば求められるのだ。基督教徒の国民たちの所で、基督を見出すことが出来るか。何処でできるのだ。制度の中でというのか。彼等の制度の中に基督はいやしない。骨の髄まで不正な不公平から成り立っている法律中でというのか。そこにも基督は居やしない。利己主義の浸み透った道徳の中でと言うのか。そんな所に基督が居る筈はない。それならどこに基督の教えはあるのだ。それは、来るべきそして目下準備中の、深い人間の本性に対する仕事の中にある。それは、地上の果てから果てまで興奮しづづけている人々の運動の中にある。それは、浄くそして正しき心霊の渇望の中にある。それは、あらゆる人の良心の中にある。何故ならあらゆる人の良心は、この世に現存する一切のものを等閑に付しておくことは出来ない、それは悪であり、慈愛と同胞愛との否定であり、邪悪な遺産であり、神の呼吸を拒絶し神の呼吸を吹き飛ばすに相応しい何かであると言うことを知っているからである。