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         聴 法 録 32

聴法録32-1

世間、娑婆、この世、此岸 は 真実の生命世界
この身体(目、口、手、足、全て) は内在する真実の生命
生きている  は真実の生命に生かされて生きている。
真実の生命の働きによって生かされているの です。

苦は、私が受け取るべき真実であり、それによって真実の生命に至る。
病は、私が受け取るべき真実であり、それによって真実の生命に至る。
老は、私が受け取るべき真実であり、それによって真実の生命に至る。
死は、私が受け取るべき真実であり、それによって真実の生命に至る。

私に起きる全ては私が受け取るべき真実であり、真実の生命に至る。
これらは、真実の生命の回向による。

内在する真実の生命を灯火となし
真実の生命の世界を灯火となし
真実の生命の働きを灯火となす。
これらを信じる程度にしたがって真実の生命は感応し、現成する。

第一義的に、真実の生命の働きによって、生かされて生きている。これがあればこそ、第一義的に真実の生命であり、その真実の生命の働きによって生きているのであれば、苦、病、老、死、等は、第二義的であり、真実の生命に至る道筋である。
聴法録32-2

「真実の生命の光明を見ることが出来るのは、光明が外から来るのではなくて、実に自分の内にあるからでなくてはならなぬ。外からきて自分等に見える者は、どこまでも外のもので、自分を動かすものでありえない。
外のものは自分に対して立っている。
それ故に、両者の間には、超え難き塹溝がある。
これはどうしても渡れるものではない。
それ故、こちらはあちらによりて動かされない。
それでも動かされると言うことのあるのは、外のものが内にあった時である。
外が内になるは横超である。
この横超の故に、吾等は光明を見ることが出来る。
光明を見ると言うことは、それを外に於いて、眼で外物を見るごとくに見るのでなくて、内に感ずることである。
つまり、光明が我らの内に動く、それを感じるのである。
自分の目で外のものを見る場合の如く、感性的確実性がそこにあるので、それで見ると言う。
見るは、感ずるのである、信ずるのである、証するのである。」