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| 聴 法 録 321 |
聴法録321-1 大事
聖智がその為に姿を占めることの出来ないというような、如何なる馬鹿げた条件も存在しない。
三つの途によって、私達は聖智に達することが出来るその一つは、思索によってである。これは、最も高き途である。第二は、真似によってである。これは、最も易い途である。そして第三は、経験によってである。これは、最も苦しい途である。
物事を理解するとは、まづその中に入り込み後にそこから抜け出すことを意味する。そこで、捕虜になってその後に開放され、魅惑されてその後に覚醒し、夢中になってその後に冷静になることが必要になってくるのだ。今いまだ夢中になっているものは、夢中になったことの者と同様に、そのことに対して適当な資格のあるものではない。私達は、先ずそのことを信じその後によく思考した事をのみ、知っているのだ。理解するためには、自由であることが必要だ。しかしそれより前に、そのことに囚えられなければならぬ。
自分を知りたいと思ったら、他人と他人の仕事に注意せよ。
他人を知りたいと知りたいと思ったら、自分の心の中をのぞき込めよ。
内側から或は背後から、私達を通して光が輝いている私達は、私達が何かであること、すべてこれは光であることを知っている。人間は、その中にあらゆる聖智とあらゆる善が住んでいる寺院の建物の正面にすぎない。私達が普通に人間と呼んでいる所のものーー食ったり飲んだりすわったり勘定したりしている存在物は、まことの光における人だとは思われない。その反対にそれは偽りの人間を示しているものである。私達は人間を尊く思うのではなく、その精神を尊く思うのである。人間はその機能である。もし人間がただ精神をのみ表していたら、私達はその人の前に頭を下げるであろう。この精神がその人の智を通して現れていたら、それは天才である。精神がその人の意志を通して表れていたらそれは愛である。
智慧深き諺は言っている。「神は、呼鈴を鳴らさずに来る」と。この意味は、私達と永遠との間には垣根がないこと、人間(結果)と神(原因)との間には壁が無いと言うことである。壁は除かれーー私達は片側から、神の本性のあらゆる深い行為の中へと裸にされる。
精神は、それ自身に於いて自らの判事であり検事である。何もかもよく知っているあなたの精神を傷つけてはならない。高き内心の裁判を傷つけてはならない。
智慧だけが多くあって、仕事の捗らない人間は何に比べようか。たくさん枝を持っていながら根の小さい木と比べることが出来よう。何かの機会に風が吹くと、第一番にその根を引き抜いてぶっ倒してしまうであろう。智慧はないが、仕事を沢山やる人間は何に比べようか。大きな根を持っていながら枝の少ない木と比べることが出来よう。世界中の風が吹き暴れても、その木を動かすことは出来ないだろう。正しき人は、約束する事少なくそして実行することが多い。悪い人は、多くを約束して実行することが少ない。
人間の価値は、その人が持っている真理によって図るものではない。その人がその真理を見出すために舐めた困難によって量るものである。
人生はーー學校である。そこでは、失敗が成功よりも教師である。
聖智は、その性質上、ただ特別な人々の能力だと考えてはならぬ。聖智は、すべての人々にとって必要なものである。それ故にすべての人によって得られるものである。
聖智は、自分の使命を知りそしてそれを行なう方法を知ると言うことの中にあるのだ。
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