聴  法  録  323

聴法録323-1
どんな理屈をつけても、精神的なものを物質的なものに帰せしめることは出来ない。そして精神的なものが、物資的なものから出てくるというような説明をすることは出来ない。

精神と肉体ーーこれについて人間は、いろいろに考えそしてまたいろいろな事が書かれている。しかし、貴方自身、貴方の本質はーー精神の中にあると言うことを知りたまえ。この認識に入り、自然の精神を肉体の上位に導き、精神を人生のあらゆる外部的な汚毒から警戒し、肉体をして精神を圧迫することをなからしめ。自分の生活が肉体と一致することを避けそして自分の生活を精神に合流せしめよーーその時、貴方はあらゆる真実を為しそして平和に、神の国に住み得るであろう。自分の使命を果たしながら。

あらゆる問題は、精神の存在を信じるか信じ得ないかと言うことの中にある。人々は、精神的な関係の中に於いて生者と死者とに分かれる。即ち信じる者と信じない者とに分かれる。
信じない者は言う。「何処に精神なんて言うものがあるのだーー食べたり楽しんだりする者こそ、私じゃないか!」と。そしてこういう人間は、多く考える事もなくただ外部の事に気を使い、肉体的なそして悪い行いをし、嘘をつき、傲慢で、しかし奴隷根性で、向上したいと思うことはない。自由も真理も愛も理知も、この世から隠れてしまう。何故ならそういう人間は死んでいるのであり、そしてこの世はただ生きている者にのみ、生活を与えるものであるから。死んでいるものは乾きそして腐ってゆくばかりだ。精神的な生活の存在を信じることは、人間の思想に、もっとほかの方向を与える。

その存在を信じ、高い生活に対する信仰に目覚めたものは、自分の内部に注意を向け、自分の感情、自分の思想を究めることに努め、高い要求と調和して自分の生活を正しくすることに励むものである。そして自分の行為によって、生活を自由な、正しい、愛に充ちたものにするように努め人生におけるいろいろな事件に於いて、自分の精神を、あらゆる善と矛盾なく調和するような思想と感情とに結合させるように努めるものである。かくして彼は真理を求めつつ、光に向かって手を差し伸ばす。何故なら精神の生活は、この世の生活が太陽の光なくしては不可能であるように、智の光なくしては不可能のものであるからだ。そこで智の光は、何よりも高いものである。それは戒律の中にいはれてある所の、「私は汝の神である」のだ。
人々の間には、全然暗闇の人もないし完全な光の人ない。すべての人は、岐路に立っている。そして各自が歩く力を持っているので、彼處へ行ったり此處へ来たりしているのだ。しかし、精神の存在を信じそして智の光の下に生きているすべての人は、神の国にいる者であり永遠の人生を持っている者だ。そしてやがて時が来るであろう。その時、死者は独りも無くなって、すべての人が精神の声に耳を傾けるようになるであろう。


精神的なものと物質的なものとの区別は、単純な子供の智慧にでも最も深い聖者の智慧にでも、同じように明らかである。精神的なものと物質的なものについて、争論するのは何の利益のないことだ、そんな争論によっては何も明らかにはならない。ただ、明らかであり疑いのないことを、解らなくしてしまうだけのことだ。