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| 聴 法 録 324 |
聴法録324-1
死の事をすっかり忘れている生活と、一時間ごとに死に近づきつつあることを気にしながら送る生活とは、二つの全然異なった状態である。
死に就いての考えが私達にとってさらに恐ろしくなくなった時でも、死に就いて考えない方が楽である。
貴方が、一瞬間ごとに自分の外面的な覆いを脱ぎ捨ててしまう時が迫っていると言うことを確かに信じそして理解した時、正義を見、正しく行為し、そして自分の運命に従うことが容易になる。その時、貴方は人々の話やうわさや行いを冷静に見るようになり、そんなものについてはもう考えないようにさえなるであろう。皆はつまらないことにのみ夢中になっているのだ。貴方は、貴方に今日与えられた仕事の総てを正しくやり遂げ、そして今日の自分の荷物を不平なく運び行くであろう。かくして人間は内面の世界に到着し得るものである。何故なら、彼のあらゆる願いは、ただ一つの事に集中されるから、即ち神の国に住みたいと言うことに集中されるから。
まま死について考えよ。そして間もなく死ななければならない者のように生きよ。
如何なる行いをしようかと貴方がどれほど迷った時でも夜には死ぬかもしれないのだと言うことを考えてみたらその迷いはすぐに解決される。そして義務とは何であるか、人間の願望は如何なるものでなければならないかと言うことが、直ぐに明らかになる。
貴方は、人に対して嫉妬し憤激し復讐しようと思うであろう。しかしその人が明日死ぬかも知れないと言うことを考えて見よーーその人に対する貴方の悪感情は、跡形もなく消え去ってしまうであろう。
次のこと以上に確かなことはない。即ち、死が近づきつつあるという考えが、私達のすべての行為を、その行為の私達の生活に対する真実の重大さの程度に従って、区分していると言うこと以上に確かなことはない。近じかの中に処刑されることを宣告されたものは、自分の能力を増加させたり、自分の境遇を保存したり、自分に良き恵みをもたらしたり、自分の民族が他の民族に打ち勝ったり、新しい遊星が発見されたりするというようなことには心を煩さなくなるであろう。しかし処刑される一分前には、悲しめる者を慰め、転んだ老人を助け起こし、傷つけるものを癒し、子供に玩具を修繕してやったりするであろう。
私は自分の庭や本を読む事や子供たちをかわいがることを愛する。死ぬと、これ等の一切のものを奪われてしまう。そのために私は、死ぬことを欲しないし死ぬことが恐ろしいのである。私のすべての生活が、このような一時的な地上の欲望とそしてその満足とから成り立っている場合がある。そうだとすると、これ等の欲望を途絶えさせるものを恐れざるを得ないわけである。
しかしこれ等の欲望やその満足が、私の中にあって変化し他の希望にーー即ち神の意志をなしとげ、私が今あるがままの様子にて神に仕えようとする希望に置き換えられるならば、私の欲望がそのように置き換えられるならば、私の欲望がそのように置き換えるられることが多ければ多いほど、ますます死が恐ろしくなくなるだけでなく、ますます死というものが自分にとって存在しなくなってしまう。もし私の欲望がすっかり置き換えられてしまったら、私にとって、生の外の何物も存在しなくなる。死は存在しなくなるのである。地上的な一時的なものを永遠的なものに置き換えることは、人生の道である。その道を歩いていかねばならない。が、それは如何にしてであるか?−−それは、私達の中の誰もが各自の心の中で知っていることである。
徒に死を回想するのは、死について思索なくして生活することを意味する。死を回想する必要はない。死がたえず近づきつつあることを知りつつ、平和に、喜ばしく生きてゆくことが必要なのだ。
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