聴  法  録  340

聴法録340-1
人間の心は、神に属するものである。

あらゆる真理は、その本源に神を持っている。真理が人間の中に現れる時、それは、真理が人間の中から生まれ出たと言うことではなく、ただ人間が真理を現わす透明性を有していると言うことを示しているにすぎないのだ。ー(パスカル)

雨水が樋を伝わって流れる時、私達には、雨水が樋の中から流れ出るように思はれる。けれども実際は、それは空から落ちてくるのである。それと同じようなことが、信仰厚き人たちが私達に説いている聖なる教えにも付随して起こっている。それは一見その人達から発しているように思われるが、事実は神から発しているのである。―(ラタクリシナ)

私は或る特別な力をもって、こういう事を経験する。即ち人間は、美しい、偉大な、そして善きことを為し或は為すこと事が出来る、が、そのすべての中に於いて、人間は彼よりも高き何者かの、或は何人かの機関であり、道具であると言うことである。この感情が宗教であるのだ。宗教的な人は、それ等のことが彼によってではなく、彼を通して完成されると言うことの中に、神聖な喜びの鼓動を感じつつ生きているのである。宗教は、人間の手、意志、行為を統制し、人間が高き仕事に対して自分の力を惜しむことを出来得る限り少なくならしめる。時とすると、人間は自分勝手な仕事にそれを費やしているものである。宗教の教える喜びは、人間を「人間」以上たらしめ、或いは単なる「人間」でなからしめる。「人間」の「自我」は、聖き魂が語る時には、当然に消え失せるるのだ。神が働きたもう時には、当然に消え失せるのだ。かくして預言者は神の招く声を聴く。年若き母が、その胎内に胎児が動くさまを感じるようにである。私達が自らの「自我」を感じている間は、私達は束縛れたもの、利己的なもの、囚われたものである。が、私達が世界の生活と合致する時、そして又私達が神の声に答える時、私達の「自我」は消滅するのだ。―(アミエル)

私達がたとへ一瞬間たりとも、そしてたとへごく小さな我欲さへ離れることが出来たら、誰にも悪を望まないものとなり得る。悪事を企てないものとなり得る。光を反射する清らかな硝子のようになり得る。― 光は存在しているのに、私達が勝手にそれを反射しないだけなのだ。そしてその時こそ、私達の周囲に、万象が輝かしい光を浴びて開かれるであろう。ー(トロー)

この地上における人間の本当の仕事は、自分の存在を神と調和させることにある。その時にのみ、愛と理性の万能力が宛も清らかな運河を流れるように、その人を通って流れる。―(世界の先進思想)誌より

神の力が貴方の中を通り過ぎ得るように、清浄さを保てよ、神の力が通りすぎることは、大きな幸福である。