聴  法  録  342

聴法録342-1
神(真実の生命)に対する愛は、完成に対する愛である。完成に対する愛は、完成に対する努力と名づけていい。完成に対する努力は、人生の本質である。それ故に人間の生活は常に、意識的な或るいは無意識的な真実の生命に対する愛である。

基督を試みつつあった法律家の一人は、こう言って尋ねた。「師よ、法の中で、最も重要なものは何でありますか」基督は彼に答へて行った。「貴方の心と霊と智とのすべてをもって、神(真実の生命)を愛せよ。これが法の中で、最も重要なものである。法の中で、その次に重要なるものもこれに似ている。貴方自身を愛する如く、隣人を愛せよ。これ等二つのことによって、すべての法則も予言も支持されているのだ。―(聖書)

あらゆる不幸そして精神上の苦悩の原因はどこにあるのか。それはただ、精神が物質に対する愛に結びついていること、不可能なものを絶えず所有したいと欲していることに原因があるのだ。何故なら、それ等の欲望は果てしなく変わっていくものであるから。人々はただ、自分たちがほしいと思うものについてのみ心を煩はしそして悩んでいる。ここに、人々がお互いに敵となって傷つけあい、懐疑し合う原因があるのだ。すべてそれは、人が決して自分で十分だと思うほどには所有し得ないものに対してのみ恋々としていることから生ずるのだ。
ただ、永遠であり無窮である所のものに対する愛のみが私達の精神に、純真な喜びを与えてくれる。そしてこの幸福の境地に向かって、私達は全力を盡して突き進んでいかねばならない。
それ故に、人間の至上の幸福は、神(真実の生命)の認識にかかっているだけでなく、ただその中にのみ含まれているのだからして人間の完成と言うことは、その人が他の何物にもまして高く愛すべき者の完成の程度によって、成し遂げられてゆくものだと言うことは明らかである。そしてこの逆もまた明らかである。この結果として、こういうことも明らかである。即ちその人が、至上の幸福に向かって完成されそして参加することが多ければ多いほど、ますます彼は最も完全なるもの、即ち神(真実の生命)を深く愛してゆくと言うことは明らかである。そしてますますこの愛に対して、すべてを投げ出してゆくと言うことは明らかである故に、私達の至上の幸福、そしてその幸福の基礎は、ただ神(真実の生命)の認識の中にのみあり、神(真実の生命)に対する愛の中にのみあるのだ。そしてこういうことも明らかに知り得られる。即ち人間の進んでゆくこの最後の目的に達する方法は、神(真実の生命)の掟の中にのみ知り得べきでありそして知らなければならないと言うことである。何故ならこの方法に寄るべきことは、神(真実の生命)が私達の心の中に存する限り、神(真実の生命)自身によって私達に書き示されるものであるから。そして又、
この目的に導てくれる行為についての支持が神(真実の生命)の戒律或は神(真実の生命)の法則と名づけられると言うことも、明らかである。神(真実の生命)のすべては、ただ一つの高い掟の中に完全に、含まれているのだ。それは、神(真実の生命)を至上の幸福として愛せよと言うこと、即ち罪に対する恐れから神(真実の生命)を愛したりあるいは他のものがほしいから神(真実の生命)を愛するのではなく、神(真実の生命)が私達の至上の幸福を成り立たせていると言うことの理解として神(真実の生命)を愛することである。そして神(真実の生命)に対する愛は、私達のすべての行為が向けられなければならない所の、最終の目的であると言うことである。肉体的な生活をしている人には、以上のことが解らない。このようなことは、馬鹿げたことに思はれる。何故なら、その人は神(真実の生命)については極めて不完全な理解しか持っていないし、その中に自分の欲しいと考えている高い幸福も見ていない。自分にとってなくてはならないものも、感情的な愉快なものも、自分の享楽の源泉であるところうの肉体を満足させてくれるものも何一つ見ていない。何故なら、彼が考えている幸福はただ、邪的な思想や知識の中にのみあるからだ。
しかし、人間の中には、正しき智より高きものそして純真なる心より完全なものは何もないと言うことを十分に理解し得る人は、そのようには考えない。
もし私達が、神(真実の生命)の法則を注意深く省みたら、第一にこの法則が宇宙的なものであること即ちあらゆる人々に共通したものであることが、解るであろう。何故なら、それはあらゆる人間の本性から導き出されたものであるから。第二に、この法則が、いかなる歴史上の現象によっても証明される必要がないことが、解るであろう。何故なら、この法則は人間の本性より導き出されたものであるから、私達はそれをアダムの心の中にも見つけ出すことが出来るであろうし又、一人で或は自分と同じような人々の中に生きている所の他のあらゆる人々の心の中にも、見出すことが出来るであろうから。
第三に、神(真実の生命)を愛することの、この自然な法則は、いかなるお祭り騒ぎ即ち何れも似たり寄ったりの、そしていろいろな慣習的な力によってのみいいものだと考えられているような行動を、私達から何一つ要求しないと言うことが解るであろう。何故なら、これは私達の中に宿っているところうのまことの智の光であり、私達がそれを理解しそれについて明白な考えを持っているといないに関わらずに、それ自体に於いて、幸福を得るよき手段であるからだ。第四に、神(真実の生命)の法則成し遂げていくことに対しての報酬は、その法則自身であること即ち神(真実の生命)の認識とそして神(真実の生命)に対する純粋の、自由な、不変な愛であることがついに解るであろう。そして神(真実の生命)の法則を破壊することに対する刑罰は、ただこれ等の幸福を失うことのみであろう。即ち、肉体とそして常に転々とし、常に混乱している精神とに奴属することであろう。―(スピノザ)

神(真実の生命)に対する愛なくして隣人を愛することは、根なくして生えるようなものだ。そのような愛は、自分たちの気に適った人々をのみ熱情的に愛することになり、或いは屈従的な愛を求めることになる。

人々は言っている。「私達には、神(真実の生命)を愛すると言うことが、どういうことを意味するのか、解らない」としかし何かを或は誰かを愛すると言うことが何を意味するのか。他の人に、どうして解ろうか。それを知っているのだ。もし人が、芸術を愛し或は科学を愛すると言うことが何を意味するするのか知らないとする。しかしもしその人が芸術とは何であるか或は科学とは何であるかと言うことを知らなかったら、どうしてそれを説明することが出来ようか。神(真実の生命)とは何であるかと言うことを知らないだけでなく知らないことを誇りさへしている時に、どうしてその人に説明することが出来ようか。

人格に対してのみ愛することが可能である。私は、神(真実の生命)は人格でない故に、神(真実の生命)を愛することが出来ないという人を知っている。しかし私自身は人格である故に神(真実の生命)を愛することが必要なのだ。

人々を恐れず、死を恐れず、悪を恐れずそしてこの世界の基本的な力を恐れない方法がただ一つある。それは、神(真実の生命)を恐れず、神(真実の生命)を愛することの中にあるのだ。