聴  法  録  344

聴法録344-1
まことの、信ずべき愛は、敵に対する愛である。不愉快な者、敵である者を愛する時にのみ、まことの愛は得られる。

私達を愛してくれる者、私達にとって感じよき者を愛するのは、人間普通の愛情で出来ることである。が、敵を愛することはただ神(真実の生命)なる愛のみが可能である。人間普通の愛情では、愛より憎しみに変ることはそれ故に彼の人々に対する愛は屡々満足でなく、苦悩をもたらすのだ。しかし神(真実の生命)なる愛は不変である。何ものも、死さえもそれを破壊することは出来ない。そして神(真実の生命)なる愛こそ、人間の心の本質なのだ。

貴方に善きことをしてくれた人々に、善きことをしたところで、どうして感謝される事であろうか。何故なら、それは罪人でもすることであるから、そして返してもらうことを当てにして貸すことが、どうして感謝されるであろうか。何故なら、罪人同士の間でもなされることにすぎないから、しかし、貴方の敵を愛せよそして返してもらうことを望むことなく、貸せよ。その時、貴方の受け取る報酬はまことに偉大であり、貴方自身は最も高められたものとなるであろう。何故なら、もっとも高められたるものは、感謝なき者、或いは悪人に対しても。恵み深き者であるから。かくして貴方は、天なる父が貴方に対して慈悲深くある如くに、慈悲深くあるであろう。
―(聖書)

まことの宗教は、自分に近き者だけではなく自分の敵にさえもよきことを望む。自分の敵にだけではなく、神(真実の生命)の敵にさえもよきことを望む。それ故に彼の人々に対する愛はしばしば満足ではなく、苦悩をもたらすのだ。 ―(パスカル)

自分に同情してくれる人を愛するのは、なんと容易なことであろう。しかし自分に背きそして自分を傷つける人を、決して非難しないでいるのは、何と難しいことであろう。

怒りは愛をもって征服せよ。悪には善をもって答えよ。貪欲は寛大よって打ち克てよ。嘘偽は正義によって打ち克てよ。 ―(仏陀)

敵を愛せよ。その時、敵はないであろう。―(十二使徒の教訓)

貴方方は、隣人を愛せよ。そして敵を憎めと聞かされていたであろう。しかし私は言う。「敵を愛せよ。呪うものを祝福せよ。憎むものに感謝せよ。誹謗し排除するもののために祈れ」と。かくする時、貴方は天なる父の子となるであろう。何故なら、天なる父はその太陽に、善きものとそして悪しき者の上にあがれと命じ給うものであるから。そして雨に、正しき者と正しからざる者の上に降れと命じ給うものであるから。―(聖書) 

人は、愛するー即ち自己を犠牲にし善を為す前に、憎むことをやめなければならぬ、即ち悪を為し、自分の個人的な都合のためにある人を他人より堕とすことを止めなければならぬ。

人々の中から或る一人を好む所うの一種の情熱が、間違って愛と呼ばれている。しかしそれはただ野生の木にすぎない。野生の木にも、まことの愛を接ぎ木することが出来るし、果実を結ばせることも出来る。しかし野生の木自身は栽培された木でないから、果実を結ぶことは出来ない。できても酸っぱい果実の代わり甘いのをという訳にはゆかない。それと同じように、その情熱自身は愛ではない。そして人々によきことをもたらさない。或はかえって悪しきことを増さしめる。

芽生えたばかりの時、愛は非常にやわらかで、一瞬触れられる事にも耐え得ない。成長した時にのみ、愛は強いのである。人々がそれを成長させるために、色々な手入れをすることは、すべてそれを悪くするのみである。寛容なことはただ一つの事である。即ち、智慧の太陽にあてさせることである。智慧は愛を育てる何よりのものである。

最も完成された人は、すべての隣人を愛する人である。その隣人がいいか悪いか、そんな選択をすることなく、すべての人によきことを為す人である。―(マホメット)

邪悪に報いるに親切をもってせよ。鋭い剣は、やわらかい絹を切り裂くことは出来ないものだ。優しい言葉やよき行為を持ってしたら、一本の髪で象を引っ張ってゆくことが出来よう。
―(フリスタン・サアデイ)

不愉快な人や敵意を持っている人と話をすることは、次のようなことを自身に反省させられる機会であるのだ。「自分は、こう言う時に、ただこう言う時にのみ現れるところうの神なる愛を持っているかどうか」と言うことを。