聴  法  録  345

聴法録345-1
あらゆる信仰に於いて、精神的なもののみが真である。

基督はサマリヤの人々に向かって、「ユダヤの人々ためにあなた方の信仰を捨てよ。」と言わなかった。彼はまたユダヤの人々に向かって、「サマリヤの人々に盟へ。」とは言わなかった。が、彼はサマリヤの人々にもユダヤの人々にも言ったのである。「貴方方は同じように間違っている」と。神(真実の生命)は心である。神(真実の生命)は内部的ものであって、土地や外的な形式とは何の関係もないのである。神殿や神殿で行うおつとめは重要なものでない。またガリラヤもイエルサレムも重要なものではない。ガリラヤででもなく、イエルサレムででもなく、何処に於いても真に帰依している人々が、自分の心とまことの中に於いて神(真実の生命)に礼拝する時が来たのだ。何故なら、神(真実の生命)はかくの如き信仰を持つ人を求めているからである。かくの如き信仰を持つ人を神(真実の生命)はイスラエルの時代にも求めた。が、今も尚求めている。何時の日に神(真実の生命)はそれを見出すであろうか?いつの日に人々が、満たさざる泉に飲み飽きて、基督に向かって言うであろう、「主よ、私達が渇きを消すためにここまで汲みにやってこないでもいいように、水を与えたまへ」と。何時の日に、疲れ切った人々が、地上の隅々からうち揃って、基督の井戸に憩いにやって来るであろう。―(ラムネエ)

基督は、永遠なものは未来にのみあるのではなくしてただそれは眼に見えないと言うだけであることをーー即ち、永遠は、時の流れによってその中へ人々が運び去られる太洋ではなく、それは現在人々の周囲にあるのだと言うことをそしてまた、人々が永遠を感ずれば感ずるほどその生活が真実になると言うことを、世界に告げるために来たのであった。更に、神(真実の生命)は遠い天上に、人々から無限に離れて存在する偶然的な抽象ではなくして神(真実の生命)は彼等がその中に住み、動き、生活している所の父であると言うことを、そして、神(真実の生命)が好む奉仕は、教会の厳かな儀式の中にあるのではなく、慈悲、正義、恭順、愛の中にあるのだと言うことを、世界に告げるために来たのであった。
―(フアラール)

神(真実の生命)は心であるのだ。その故に神(真実の生命)への礼拝は、心の中で現在においてなされなければならぬ。

身体の恰好や動かし方からのみ出来上がっている宗教は相撲取りの稽古よりも低いものである。心の中で神(真実の生命)を認識していなければ、言葉の上で神(真実の生命)を崇めても、何にもならない。現実の生活は否定する方が有利である、という信仰は虚偽である。何故なら、現実の生活の中に於いてこそ永遠の生活が始まるのであるから。完成に到達した人間は、心とこの世界の自然との間にそして自分と他の者との間に、差別を設けない。
人の子の中で、自分の心の中に於いて神(真実の生命)を認識している者のみが、聖なるものという名に値する。己を知れ、その時神(真実の生命)に属するものになり得るであろう。
生命本源が現に貴方の中にあると言うことも知らずに、何故貴方は、他のところにそれを求め探しているのであるか?貴方は丁度、太陽が照っているのにランプを灯す人間に類している。
―(印度のブエマナ)

心の救いを得るためには、五体を具なえた基督を知ることが、絶対的な必要ではない。神(真実の生命)の子をーー即ち万物の中に、殊に人間の心の中に、そしてなによりもすぐれて基督の中に現れていた永遠の神(真実の生命)の叡智を認識することは必要である。この叡智なしには、誰も幸福を得ることは出来ない。何故なら、何が真であり、何が偽であるか、善とは何であるか、それが教示するのだからである。―(スピノザ)

私達がいかに偉大な人間をも神(真実の生命)自体と考えることをしないのは、光、聖智、勇気の、崇高なそしておよび難い本源としての神(真実の生命)に対する私達の理解が、限りなく高いものであるからである。私達と同じ人間の中に見出される。それ等の天賦に対する私達の評価が、無限に低いからではない。
ー(カーライル)

自分の信仰から、あらゆる肉体的なもの、眼に見えるもの、感覚的なものを捨て去ることを恐れるな、貴方が貴方の信仰の精神的な中心を清めれば清めるほど、信仰にますます確固なものとなるであろう。