聴  法  録  347

聴法録347-1
愛は―神(真実の生命)の本性の現れである。愛に時間はない。それ故愛は、現在にのみ、あらゆる現在の一瞬にのみ現れるのだ。

一般に愛するとは、よきことを為すことを意味している。私達はそのように解しているが、他に愛を解する途はないのである。
愛は言葉であるばかりでなく、他の人々に幸福をもたらす所の実行である。 人がもし、それ以外の、将来の大きな愛を行なうという名の下に、現在の小さな愛の要求を受け入れまいと決心するならば、その人は自分と他の人を欺いているのであり、自分一個の外には誰をも愛していないのである。将来における愛はあり得ない。何故なら、愛は現在における行為でしかないから。現在に於いて愛を実行していない者は、愛を持っていない者である。

私達は、私達が愛している者に対して、公平であり、慎み深くあり、注意深くあることに何時でも躊躇することはいらないのである。私達は、彼等が或は私達が、病に冒されたり死に脅かされる時を待っていなくてもいい。
人生は短いのだ。この行路を一緒に行く人の心を喜ばせるために、あり余った時間はないのだ。私達は、よき者となるために、急がねばならない。―(アミエル)

貴方が助けを与えている不幸な人からは、離れていよ。恩人の名前を知らせることなく、その恵みを心から楽しませよ。

貧しきものを助けよ。しかしその者の貧困の理由を知ろうと努めるな。その理由を明らかにすることによって、貴方の同情が弱まること事のないために、


たとえ世界中のものが貴方を非難しようと、貴方はよき者であれ、それは、彼等が貴方を褒め、そして貴方が悪しき者として生き続けていることより、はるかに良い。―(ローデイ)

聖書は素朴な信仰、しかし明らかに神(内在する真実の生命)に対する信仰を内容としている。それからまた、神(真実の生命)の崇拝、それと同じ意味で、神(真実の生命)の掟に対する従順を内容としている。すべての神(真実の生命)の掟は、一つの事の中にある。即ちそれは、隣人を愛することである。それ故に、自分自身を愛するように隣人を愛することは、掟に従っていることを意味し、掟を成し遂げているために幸福であることを意味していると言うこと、そしてその反対に、隣人を侮り憎むことは苦悩と我執とに落ち込むことを意味していると言うことを、誰も疑うことは出来ないのである。―(スピノザ)

愛には二つの種類がある。その一つは、万人の中にある同一の精神的本源に対する愛を知らずに、人々を愛しているものである。
他の一つは、万人の中にある唯一のものー―即ち万人の中にある同一の精神的本源を愛しているものである。
その二つの愛の違いはどこにあるか?第一の場合に於いては、私達は、その人々が自分の気に入ってる間だけ、人々を愛しているのである。第二の場合、即ち、万人の中にある唯一の本源を愛する場合には、私達は、その人々が自分の気に入らぬときにさえも、人々を愛するのである。第一の場合に於いては、絶え間なく愛の対象が変わるのである。
妻、友人、夫等々と絶えず変わるのである。何故なら、私達が愛している人々は絶えず変わり、彼等に対する私達の感情も変わるからである。第二の場合に於いては、私達の徳性上の成長の度合いによって、私達は益々はっきりと万人の中に神(内在する真実の生命)の精神的な本源を認識し、益々深くそれを愛するであろう。
 -(フヨードル・ストラホフ)

私達は、どうしてそんな事をすることが出来たのか、どうして慈善をなさなかったのか、或いはどうしていつも自分に頼っていた者への援助を無にし、義務を果たす悦びを無にするような取返しのつかないことをしたのかと悩ましく、苦しく思い起こすのだ。