聴法録357-1
生きるとは生活することですが、その生活を「生(せい)」と「活(かつ)」に分けて、人生には二つの大きな課題があると話しています。
(板書)
「なぜ仏法を聞かないといけないのか?」
人生・・・生活すること
活(かつ)・・・パンをどう手に入れるか?
生(せい)・・・パンを食べても死ぬのに、何の為に生き
るのですか? (これが仏教の課題)
「活」というのは、衣食住、地位、名誉、健康、財産などの問題です。一言で言えばパンをどう手に入れるかということで、私たちの日常生活のほとんどはこれに費やされています。パンを手に入れたら死ななくなるというのなら人生の課題は一つでしょうが、パンを食べても100%死にます。
「パンを食べても死ぬのに、何の為に生きるのですか?」というのが「生」の課題です。これこそが宗教・仏教の課題です。パンが山のように手に入ったら、次は「生」の問題を考えるようになるかといったらならないですね。さらにもっともっとパンが欲しくなり、最後は「活」に埋もれてしまいます。
「生」と「活」は密接に関係していますが、問うているレベル・質が違います。「生」の課題を明確にして聴聞することが大切です。
「ま
な ざ し 聞法道場」に仏法を聞きにくるあるお父さんがいます。それを年頃の娘さんがとても嫌がっていました。なんで今更、仏教を聞かないといけないのかと。私が沖縄の地方紙にシリーズでコラムを半年担当したことがありました。人生には「生」と「活」の課題があり、その「生」が仏教の大切な課題であると書きました。それをたまたま娘さんが読んで、お父さんがなんで仏法の話を聞きに行くかよく分かったと、それからは嫌がらないで行かせてくれるようになったとのことです。
昨今、仏教が人々にアピールする力を持たなくなってきていると言われています。それは、仏教が何を課題にしているかが曖昧になり、人々の心の底からの願いに応えることができなくなっているからだと私は思っています。人々が日常生活で追い求める地位、名誉、財、健康、社会活動、経済活動などはすべて「活」の問題です。それはそれで大切です。しかし仏道の眼目、つまり一義的な問題ではありません。仏道を歩む上で大切なのは、「なぜ仏法を聞かないといけないのか?」、「仏教は何を課題にし、それをどう解決したのか?」を明確にすることです。仏教が解決すべき課題は、「生死(迷い)を超える」ということです。
何が本来の仏道の課題であるかが明確でないと、違うものを仏道の課題にしてしまいます。
釈尊も親鸞聖人も「生」の課題を問うた
(板書)
釈尊(ゴータマ・シッダルタ)…老病死を逃れる道を求めて
親鸞聖人 : 後世を祈らせ給いける
?
法然上人 : 生死いずべき道
釈尊は釈迦族の王子(名前・ゴータマ・シッダルタ)として生まれ、地位も名誉も財産もあり、恵まれて大切に育てられました。しかし、いくら「活」が満たされていても、城では生きていけませんでした。青年ゴータマ・シッダルタの言葉が残っています。
人の命は何と短いことか。百歳にもならないのに、死なねばならぬ。たといこれ以上ながく生きても結局、老衰のために死んでしまう。 (『スッタニパータ』
愚かな者たちは、自分が老人になり、死ぬことを避けることができないのに、他人が老人になり死ぬのを見るといやがるが、考えてみると私もいつか老人になるのであり、死を避けることはできないのだから、他人が老人になり、死ぬのを見ていやがるべきではない。いま若くして、当分死なないといっておごり高ぶるものは、きっと自滅する。そう考えたとき、私の青春の喜びは、ことごとく断たれてしまった。 (『中阿含経』)
父王よ、私は今、恩愛の情を離れて、老病死を逃れる道を求めて家を捨てます。養母プラジャーパティーよ、私は苦しみのもとを断とうと思います。わが妻ヤショーダラよ、人の世には必ず別れの悲しみがある。私は、その悲しみのもとを断とうと思ったのだ。 (『方広大荘厳経』)
ゴータマ・シッダルタは、自分が老いてゆく、病いになる、死んでいくという課題を解決するために、「国と財と位」を捨てて城を出て行ったのです。ここが釈尊の求道の原点でした。
親鸞聖人も比叡山で行きづまり、山を下りて六角堂に参籠されました。恵信尼公の手紙によると
山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに〜
後世の助からんずる縁にあいまいらせん
(『恵信尼消息』:真宗聖典 616頁)
参籠された時点では、親鸞聖人も迷いの中です。その迷った中での問いは、「後世」でした。死んだらどうなるのかという問題です。それが聖人の「生」の課題でした。その課題は比叡山で修行しても解決できなかったのです。参籠中、夢の示現にあずかって法然上人を訪ねます。そのとき法然上人は、
ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いし〜 (『恵信尼消息』:真宗聖典 616頁)
でした。親鸞聖人の「後世」の問題に対して、法然上人は「生死出ずべきみち」を説いていたのです。
私は、親鸞聖人の「問い」と法然上人の「答え」は、かみ合ってないと思います。親鸞聖人の問いは、死んだらどうなるかという「後世」の問題でした。法然上人が説いていたのは、「生死出ずべきみち」でした。生死には、迷いという意味があります。比叡山を下りた親鸞聖人の問いは、「前世、現世、後世」の分別した問いでした。「前世、現世、後世」というのは、私たちの日常的なものの見方ですが、親鸞聖人もそこで行きづまっていたのです。この迷いの「問い」に対して、法然上人の「答え」は「生死一如」という分別を超えた視点で説かれた「生死出ずべきみち」でした。それを確かめるために、親鸞聖人は法然上人のもとへ「百日間、雨の日も照る日も、いかなる大事があろうと」通ったと書いてあります。若き日の親鸞の真剣な求道の姿が彷彿とします。
尊敬する釈尊や親鸞聖人においても、仏教の課題は私たちと同じでした。「生」が明らかになって初めて、「活」は「活」としての十分なはたらきがなせる世界が開かれます。「生」が明らかにならない「活」は、迷いをひき起こします。
生死を「越える」と「超える」
法然上人の説かれていた「生死出ずべきみち」は、現代語では「生死をこえる道」でしょう。
(板書)
生死を「こえる」
越える・・・自分の思いで越える: 「活」の次元
超える・・・ダルマ(法)によって超える:「生」の次元
ダルマ(法) ・・・如来の智慧・慈悲
仏法を聞く人も聞かない人も皆、いずれ娑婆の命は終わります。ですからどの人も、生死はこえないといけないのです。「こえる」を仮名で書いているのには理由があります。私は「こえる」には、「越える」と「超える」があると考えています。
生死を「越える」というのは、どうせ人生はこんなものだと自分の思いを固めるか、あるいは地位や名誉や財力を手にいれることで、生死を越えようとする試みです。宗教・仏教と縁のない人はもちろん、仏法を聞いても自力にとどまる人には、その道しかありません。生死を「越える」は、「生死」という分別を自らの分別で越えようとする試みですから、結局、「生死」に埋もれてしまいます。
「生死を超える」というのは、ダルマ(法)によって超えることです。「生死」というのは分別ですから、分別で分別をこえることはできません。「生死」はダルマ(法)によってしか超えることはできません。如来の智慧・慈悲である無分別からの呼びかけが迷いを超えさせます。それが「他力を賜る」ということです。
仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし
「他力を賜る」ということを、浄土真宗の教えにたずねてみます。それで本日の講題を「仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」としました。 それは、
『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」というなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
(『教行信証』信巻:真宗聖典 240頁)
からの引用です。「聞」が大切です。
「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。
(『唯信鈔文意』:真宗聖典 551頁)
「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。
(『唯信鈔文意』:真宗聖典 547頁)
「聞」とは「本当に聞く」、「如実(あるがまま)に聞く」ことです。経典のはじめの「我聞如是」、「如是我聞」の「聞」と同じ意味です。「聞」は「信心」です。しかし私たちは、自我(分別心)に邪魔をされて「本当に聞く」、「如実(あるがまま)に聞く」ことが出来ないのです。だから「聞」が「信心」にならないのです。
「仏願の生起」とは、仏の願いとは何なのか、どうしてそれが立てられたのかということ、「仏願の本末」とは、仏願は私たちにどう届いて、それはどういうはたらきするのかということです。その「仏願の生起・本末」を聞いて、「疑心あること無し」を「無疑心」といいます。「無疑心」とは、私たちに開かれる「疑い無き心」、「心の底からの確かなうなずき」で、それが「本願力回向の信心」です。
「本願」とは、生きとし生けるものに阿弥陀仏の救いを信じさせ、その名号を称えさせて、浄土に往生させたいという願いです。「本願力」とは、阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに立てられた本願が成就して、現に今、衆生を救いつつあるはたらきのことです。「回向」とは「回し差し向ける」ことで、「本願力回向」とは。如来が衆生に南無阿弥陀仏を回し差し向けて救済することをいいます。その回向された本願力によって、私たちの疑い(計らい)が払拭された心が真実の信心です。
少し休憩してから、無疑心の背景をマルティン・ブーバーの「我と汝」や唯識をとおしてたずねたいと思います。
< 休憩 >
「疑い無し」というのが「無疑」ですね。『聖典』のいたるところに出てきます。親鸞聖人の『高僧和讃(善導大師讃)』 にも、
真宗念仏ききえつつ
一念無疑なるをこそ
希有最勝人とほめ
正念をうとはさだめたれ
(真宗聖典 :496頁)
と、「無疑」ということばがあります。和讃の意味は、「他力の念仏のいわれを聞いて、疑いなく信じている人こそ、希有でもっともすぐれた人とほめ、その身に真実の信心を得ているといわれた」となりますが、「無疑」ということばが重要な意味をもつことがよくわかります。
『一念多念文意』にも、
「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御(み)のりなり。
(『一念多念文意』 : 真宗聖典 534頁)
と、「諸有衆生 聞其名号」ではじまる「本願成就文」を釈した所にあります。「本願を聞きて疑い無き心を『聞』というなり」の「疑い無き心」が無疑心です。
浄土真宗の話を聞いても信心がよくわからないから、疑わないでおこうとか、信じないといけないのではないかとか、そういうこともあるのかなあとか、対象的にものを考えます。そういう対象的なものの見方は信心ではありません。信心とは、理屈をつけて信じようとする心ではないのです。信心というのは、「ああなるほどそういうことだったのか」と骨の髄までうなずくこと、疑い無し(無疑)です。
疑わないでおこうというのを「不疑」といいます。何とか信じ込もうとするのは、自らの疑い(計らい)を自らの計らいで取り除こうとする疑いの姿です。信じ込もうとする計らいの心が歩みを止めてしまいます。分からないから駄目だというのではないのです。はじめから分かる人はいません。どこまでも分からないものは分からないと疑問をもって歩みきることが大切です。「問い」を持って歩むのが仏道です。
信心は「不疑心」ではなく「無疑心」です。無疑心を真実の信心といい、その確立が私たち人間の救済を意味します。「疑心あること無し」といえるまで歩みきること、それが一番大切なことです。
(板書)
無疑心・・・疑い無しの心
不疑心・・・自らの計らい心
ただ誤解してはいけないのは、私が真実になるのではありません。
煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。
(『唯信鈔文意』 : 真宗聖典 552頁)
とあるように、教えにあうことで煩悩具足の身であることに目が覚めて、私が仰ぐべき真実の世界がはっきりするということです。
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