聴法録359-1
二種深信を開発する聞熏習
(板書)
聞熏習力
ところで、私たちに自由意志はあるのでしょうか。唯識をもとに考えてみました。阿頼耶識は初能変、末那識は第二能変、前五識と意識が第三能変でした。能変とは、能動的に変えてゆく作用のことで、私たちは三つの能変を免れることはできません。私たちは単純にものを見たり、判断したり、行動したりしているわけではないのです。しかし完全に支配されているわけでもありません。喩えば、スプリングのついた自由意志を想像してみました。スプリングがついているので不自由です。では全く動けないのかというとスプリングですからある程度動けます。完全な不自由意志でもありません。ですから、私の意識は自由意志でありつつ不自由意志であり、不自由意志でありつつ自由意志であります。私はこのような相互作用(そうごさよう)を「動的な相互作用」とよんでいます。
《表層の心》
と 《深層の心》の間にも、動的な相互作用があります。まず意識的なレベルでの行為・行動、つまり現行は、阿頼耶識に無始以来に熏習された種子によって引き起こされます。このことを「種子生現行」といいます。そして引き起こされた現行は、種子として阿頼耶識に熏習されます。これを「現行熏種子」といいます。「種子生現行・現行熏種子」と一連の流れが同時に起こり、永遠の過去から連綿とつづいているのです。
しかし「種子生現行・現行熏種子」において、「種子生現行」の種子と「現行熏種子」の種子は必ずしも同じものではありません。種子から生じた現行が、あらたに阿頼耶識の中に種子を植えつけるのですが、その種子はすぐに現行するとは限りません。阿頼耶識の中に熏習された種子は、条件が整う時まで生滅をくりかえします。唯識では、それを「種子生種子」といい、時間的流れとしては前後の関係です。そしてそれが思いもよらない時に、思いもよらない形で現われます。
種子は阿頼耶識の中にあって、私たちの現行を生みだす原因としての力です。種子には、「本有種子」と「新熏種子」があります。「本有種子」とは、無始以来、永遠の過去から阿頼耶識のなかに本来的にそなわっている原因力のことです。生まれながらにその身にそなわっている本能は大きな部分を占めているでしょう。「新熏種子」とは、さまざまな現行によってあらたに熏習された種子のことです。私たちの生活は、「本有種子」と「新熏種子」が相互に関係することによって引き起こされます。
私たちは、深層の心・無意識(阿頼耶識・末那識)に直接的には関与できません。私たちが直接的に関われるのは前五識・第六識(意識)だけです。その前五識・第六識(意識)も、「種子生現行・現行熏種子」、「種子生種子」の複雑な影響を受けています。私たちに可能な道は、前五識・第六識(意識)をフルに活用する道です。最大の活用は、意識的にくり返し仏法を聞くことでしょう。仏法の話を聞くと必ず阿頼耶識に熏習されます。ことを「聞熏習」といいます。そして、聞くことによって生まれる力を「聞熏習力」といいます。それがいつどこでどういう具合に展開するのかはわかりませんが、聞法する前とした後では、私たちの中で大変なことが引き起こされていることは事実です。「聞熏習」、感動的な言葉です。聞法という現行は、「新熏種子」となりますが、私たちが生まれながらに一如への目覚めのはたらきを「本有種子」として持って生まれて来ているからだと私は考えています。喩えていえば、私は冷たいけれども火の暖かさを感じることができるということです。浄土真宗は「聞の宗教」、「信心は聞に極まる」と言われるように、「聞」は「新熏種子」となり、「本有種子」に作用して回心を引き起こし、信心を開発します。その信心が二種深信です。
マルティン・ブーバーの「我と汝」
私たちは、臨終の一念まで分別を離れることができません。分別を離れることができない私たちが、どのようにして見失った一如の世界と出遇えるのでしょうか。
私にとって、分別の構造を解明し、回心の成立する根拠を明らかにしたのは、マルティン・ブーバーの「我と汝」でした。ブーバーの『我と汝・対話』という本は、岩波文庫で手に入ります。まず出だしから驚かされました。
世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
このことばに私は二つの内容をみます。ひとつは「世界は一つではない。世界は二つある。」ということ。もうひとつは?「人間のとる態度とは別に世界が存在するわけではない。世界は、人間のとる態度による。」ということです。唯識にも「唯識所変」ということばがあります。「唯識所変」を直訳すると「ただ(唯)、識(しき)によって変(へん)じだされた所のもの」となりますが、意味することは、「私たちの心こそが、私たちが生きている世界の内容を決定している」ということです。まさしく私にとって、ブーバーの「我と汝」は現代の唯識でした。
この二つの内容は、私の物の見方をひっくり返すほどの衝撃のことばでした。なぜなら、私は「世界は一つ」で、「その世界は人間のとる態度とは別に存在している」と思って生きて来たからです。?ブーバーのいうのが正しいのであれば、私が長年生きるのに拠り所としてきたものの考え方は誤りといことになります。次に続くことばは、
人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。
ブーバーは、人間の態度はことばによって決定されることをまず指摘します。その態度を決めるほどの重要なことばを、ブーバーは「根源語」と命名し、その根源語の内容を明確にします。
根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
と、いきなり重要な見解が述べられ、そして根源語である「対応語」には二種類あることを指摘します。
根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。したがって人間の〈われ〉も二つとなる。なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。
ここでブーバーは、「人間の〈われ〉も二つとなる。」という驚くべき事を指摘します。〈われ〉といったら一つであって、〈われ〉が二つなどということは、かつて私は考えたこともありませんでした。〈われ―なんじ〉の〈われ〉と、〈われ―それ〉の〈われ〉とは、まったく異なる〈われ〉です。だから〈われ〉は二つあることになります。〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということです。ですから「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。」のです。
(板書)
ブーバー: 「根源語とは、単独語ではなく、対応語である」
われーそれ (Ich ― Es)
われーなんじ(Ich ― Du)
「人間の〈われ〉も二つとなる」→「〈われ〉が生きる世界が二つある」
ブーバーは「根源語とは、単独語ではなく、対応語である。」と述べ、いきなり対応語から話を進めています。しかしながら、私たちは日頃、「自分」(〈われ〉)がいると思って生きています。そして同時にまた、「自分以外のもの」(〈それ〉)があると思って生きています。要するに私たちは、(私は私)、(それはそれ)、(あなたはあなた)と、先天的にバラバラに(私)、(それ)、(あなた)などが存在していると考えています。それは私たちが、疑うこともないほど深く思い込んでいる普通の考え方、感じ方ですが、ブーバーが否定した視点です。
実体化した単独語〈われ〉、〈それ〉、〈なんじ〉などが先にあり、その単独語が関係づけられて〈われ―なんじ〉、〈われ―それ〉ができあがると考えると、〈われ―なんじ〉の〈われ〉と〈われ―それ〉の〈われ〉は同一の実体化した〈われ〉のままです。「根源語とは単独語である」という視点は、世界は私とは関係なく単独にそれ自身として存在しているという物の見方で、それは必然的に「世界は人間のとる態度によらない、世界は一つである。」という間違った結論を導きます。これが私たちの常識的、日常的な実体化したものの見方です。
ブーバーの「根源語とは、単独語ではなく、対応語である」ということばは、私たちのものの見方は根底的に間違っているという衝撃のことばにほかなりません。
〈われーそれ〉・〈われーなんじ〉と唯識の三性説
ところで唯識には、三性説(さんしょうせつ)、「分別性(ふんべつしょう)(遍計所執性(へんげしょしゅうしょう))」「依他性(えたしょう)(依他起性(えたきしょう))」「真実性(しんじつしょう)(円成実性(えんじょうじつしょう))」というものの見方があります。この三性説は示唆に富んでいて、私はこの教えに触れていっぺんに視野が広がったような感動を覚えました。
「分別性」とは、先天的にものがバラバラに存在しているというものの見方です。つまり単独語としてものを見る見方です。ブーバーは、「単独語は、根源語ではない」としてあえて語らず、いきなり対応語から話を進めています。しかし唯識は、単独語からものを見る人間の迷妄性(めいもうせい)を問題にする所からスタートします。
(私)、(それ)、(あなた)などが別々に先天的に存在していると見る認識能力を「分別知(ふんべつち)」と言います。「分別知」によって「分別性」は成り立っています。「分別性」は、我執がつくりだした虚妄分別ですが、それが日常的であまりにも当然のごとくになっているため、無意識にそのような発想で物を見、考え、それを常識として生きているのが私たちです。唯識はこの「分別性」の上に築かれる世界は顛倒妄想の世界であることを明らかにします。
「依他性」とは、一切のものは互いに依存しあっているという見方です。 これはブーバーの言う「対応語」の視点ですが、問題は対応語には〈われーそれ〉と〈われーなんじ〉の二つがあるということです。
「真実性」とは、一切のものは根源的にはつながり合っていてひとつのものであるという見方で、本来的にはすべてのものは相を離れた無相のものであるというのが真実のすがたであるというので「真実性」といいます。真如、一如ともいいます。これを見抜く智慧が「無分別智」、いわゆる「般若・智慧」です。
問題は、「分別性」から「依他性」を見るか、「真実性」から「依他性」を見るかです。「分別性から依他性を見る視点」は、〈われーそれ〉の対応語となります。つまり別々の存在がまずあって、それからつながりを見るという私たちの普通の物の見方ですが、人間の虚妄な視点から関係性を見る見方です。
「真実性から依他性を見る視点」は、〈われーなんじ〉の対応語となります。一切のものは、分離はできないが区別はできます。「分離はできない」とは、本来的にひとつのものだからです。これが真実性です。「区別はできる」とは、互いに関係し合っているということで、これをみることのできる智慧が「般若後得智」です。この「般若後得智」の具体的な表現が対応語〈われーなんじ〉です。
如来の名を呼ぶ存在の誕生
「ことば」は、分別する道具にほかなりません。〈われーそれ〉も〈われーなんじ〉もともにことばとしての表現ですから分別です。その違いは、〈われーそれ〉は人間の分別性から依他性をみる分別であるのに対して、〈われーなんじ〉は如来の真実性から依他性をみる分別です。〈われーそれ〉の〈われ〉は、自力の心で生きる〈われ〉です。〈われーなんじ〉の〈われ〉は、他力の心で生きる〈われ〉です。
分別でしかものを考えることができず、自ら分別した妄念妄想の世界を生きて苦悩している私たちが救済されるには、分別を超えた無分別の涅槃・法性法身の世界を再発見することが不可欠でした。しかし、分別から一歩も出ることのできない私たちは自ら無分別の法性法身の世界に触れることはできません。私たちのために、無分別の一如・法性法身は、自ら方便法身(ほうべんほっしん)という分別になって衆生を救済したいという本願を立てたのです。その本願が成就して建立された国土が浄土であり、分別から一歩も出ることのできない私たちへの呼びかけが〈われーなんじ〉です。その如来のいのちがけの呼びかけに深くうなずいた方が親鸞聖人です。
『歎異抄』には、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたる本願のかたじけなさよ (『歎異抄』:真宗聖典 640頁)
と、感動のことばが記されています。また『正像末和讃』では、
如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて大悲心をば成就せり (『真宗聖典』 503頁)
と讃えています。
本来、煩悩具足した私たちは〈われーなんじ〉の世界を喪失して誕生し、〈われーそれ〉と分別したバラバラの世界で一生を終える以外のない存在です。一方、〈われーなんじ〉の世界は、真実の方の働きによって開かれる世界です。だから〈われーなんじ〉の念仏は、如来より賜る本願念仏です。
〈われーなんじ〉と呼びかけられていることに目覚めたものは、〈われーなんじ〉に呼応する存在となります。全存在をかけて苦悩する私たちに呼びかける如来の名を呼ぶようになります。それが、諸仏称名の願(十七願)のはたらきです。全存在をもってのみ語ることができる根源語〈われーなんじ〉をブーバーは、「永遠のなんじ」と表現していますが、この「永遠のなんじ」の呼びかけ、それが〈南無阿弥陀仏〉です。本願念仏を賜(たまわ)るということは、如来に〈なんじ〉と呼びかけられている身であることに目がさめて、〈われーなんじ〉の世界を生きることです。
『讃仏偈』から見た「仏願の生起・本末」
信心とは、「機の深信」と「法の深信」の二種深信でした。「機の深信」については、先に唯識でその意味することを検討しましたので、ここでは「法の深信」を『讃仏偈』にたずねてみます。『讃仏偈』は『嘆仏偈』、『歎仏偈』ともいわれ、『仏説無量寿経』に書かれている四字八十句で構成される偈文です。
ある国のひとりの国王が世自在王仏と出会い、その説法を聞いて深く喜び、この上ないさとりを求める心をおこし、国を捨て王位を捨て、出家修行者となり法蔵(菩薩)と名のります。法蔵菩薩は世自在王仏との出会いに溢れ出る感動を抑えきれず、師である世自在王仏の気高いお姿を仰いで、その徳を讃え、師に向かって自らの信念と願いを述べます。それが『讃仏偈』です。世自在王仏を讃える《讃嘆》、自らの願いを表明する《発願》、師に証を請う《請証》の三つに大きく分けることができます。偈を述べた後、法蔵菩薩はすべての生きとし生けるものを救うための四十八の願をたてます。
私たちもまた、本当に心から感動したときには、私もまた先生のようになりたいと思うものです。その思いは願いとなり、言葉となり、行動となります。そのことを住岡夜晃先生は「生命を継ぐ者は、生命を捧げてゆく」と言われました。
私は生きるのに四苦八苦していたとき、『讃仏偈』の「一切恐懼 爲作大安 」(一切の恐懼に、ために大安を作さん)ということばが目に飛び込んできました。
(板書)
一切恐懼 爲作大安
(真宗聖典 十二頁)
この語は、法蔵菩薩が師・世自在王仏を讃えた後で、自らの願いを表明する《発願》にあります。なぜ仏になりたいのかというと、「一切の恐れおののいて生きているものに 大きな安らぎをとどけたい」ためだというのです。私はこの法蔵菩薩のことばに激しく心をゆさぶられ、その感動を書きとめたことがあります。
この世は私が生きていける世界ではない
どうにもならない虚無感をかかえて
長いことさまよってきた
「一切恐懼 為作大安」
(一切の恐れおののいて生きているものに 大きな安らぎをとどけたい)
生ききれない 死にきれない
絶望的な思いの中で出会った法蔵菩薩のことばであった
「恐れおののいて生きているもの」
私がそれであった
「為作大安」
この文字が光を放ち
心の琴線をはじくたびに身が震える
法蔵菩薩よ
あなたのとどけたいという「大安」に出会いたい一心で
尋ね尋ねてきて
見えてきたのは真理に背を向けている私の姿でした
本来のありようへ帰れとのあなたの願いを
南無阿弥陀仏といただける嬉しさ
しかし、「一切恐懼 為作大安」という願いは、どうしたら実現できるのでしょうか。法蔵菩薩の発願は具体的です。讃仏偈はその方法を明らかにします。
(板書)
令我作佛 國土第一
法蔵菩薩が第一に取り組んだのが、国土をつくることでした。それが「令我作佛 國土第一 」(我仏に作(な)らん、国土をして第一ならしめん)です。「私が仏になるときには、尊い国土を第一に作りたい」というのです。
(板書)
國如泥? 而無等雙
この国土はどういう国土かというと、「國如泥? 而無等雙」(国泥?のごとくして、等双なけん)です。泥?は涅槃と同じニルヴァーナの音写です。ニルヴァーナとはすべての煩悩を滅した究極のさとりの世界、無分別の一如・法性法身です。法蔵菩薩が建立を誓った国土は、泥?の世界そのもののように並ぶものがないくらい素晴らしい国でした。
法蔵菩薩がなぜ第一に国土をつくる必要があったのかというと、人間の妄念の産物である自我を根拠にして恐れおののいて生きている者を救うには、それに代わる根拠になりうる国土が必要でした。しかし分別でしかものを理解できない私たちには、無分別の世界(法性法身)は認識不可能です。それで法蔵菩薩は、私たちの分別で理解できる、しかし泥?の世界(法性法身)そのもののように並ぶものがないくらい優れた国(方便法身)を届ける必要があったのです。それが「わたしが仏になるときは、まず第一に、国土をつくりたい。その国は、泥?の世界そのもののように並ぶものがないくらい優れた国にしたい」という願いでした。
讃仏偈の後、法蔵菩薩はすべての生きとし生けるものを救うため具体的に四十八の願をたてます。その四十八の誓願の中の第十二願(光明無量の願)と第十三願(寿命無量の願)によって成就した国土が浄土です。
如来原理: 法性法身から方便法身へ
この浄土が実現される過程とそのはたらきをたずねてみましょう。
皆さんには、カラーコピーした資料を一枚お配りしています。図の中の〈われーそれ〉、〈われーなんじ〉は、マルティン・ブーバーの「我と汝」のところで説明しましたのでそこを参照して下さい。まずその図全体の説明からはじめます。
右下に大きな字の「法性法身」がありますが、白い背景すべてが法性法身を表わしています。破線で囲まれた青い円の領域が「方便法身」です。
親鸞聖人は、法性法身と方便法身の関係について、ほぼ同じ内容のことを『唯信鈔文意』と『一念多念文意』に記しています。
法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。 (『唯信鈔文意』 真宗聖典:554頁)
この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を、南無不可思議光仏とももうすなり。この如来を方便法身とはもうすなり。方便ともうすは、かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうをもうすなり。すなわち、阿弥陀仏なり。この如来は、光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。」
(『一念多念文意』 真宗聖典:543頁)
資料の図の背景である「法性法身」は、色もなく、形もなく、思いもおよばない、言葉でも言い表せない、つまり私たちの一切の概念、認識、表現をこえた無分別の真如そのものです。(それを承知の上で、ことばで表現する以外に道はありません。このように実体のないものに名称を与え仮に名づけることを仮名(けみょう)といいます。法性法身は仮名です。) 結局、分別でしかものを認識できない私たちは、私たちの存在の根拠である大切な法性法身を認識できないのです。私たちは五感の範囲内でわかるものしかわからないのです。それだけなら法性法身は私たちと無関係です。
しかし「この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり」とあります。一如から方便法身として法蔵比丘(菩薩)が誕生します。一如とは、もののありのままのすがたはあらゆる差別的な相を超えた永遠不変の世界ということで、法性法身のことです。方便法身とは、真如そのものである法性法身が衆生救済のために名を示し形を現わした仏身のことです。分別でしかものを認識できない私たちのために、法蔵菩薩は、涅槃・法性法身と同じはたらきをなす国土を第一につくりたいと願い、その願いが成就して尽十方無碍光如来となったのです。国土・浄土の建立こそが、自らの分別ゆえに恐れおののいて生きている一切のものに、大きな安らぎをとどけることが可能な唯一の道だったのです。無分別の法性法身が自ら方便法身という分別になったのです。つまり〈われ〉も〈なんじ〉も無い世界から、〈われーなんじ〉となり、〈なんじ〉と呼びかけていたのです。
親鸞聖人は、法性法身と方便法身の関係をあらわすために『浄土論註』を引用しています。
一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。
(『教行信証』証巻 : 真宗聖典 290頁)
図の法性法身と方便法身は、「法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身あらわす」という関係を表わしています。《青色の円:方便法身》が実線でなく破線で囲まれていることは、「この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じではない」ことを、『讃仏偈』でいえば、「國如泥? 而無等雙」(国泥?のごとくして、等双なけん)の「如(ごとくして)」を表現しています。
しかしなぜ、法性法身は方便法身を生ずるのでしょうか。私の理解を超えていて、ただただ不可思議です。しかし現にはたらきをなし、私たちを無明煩悩の闇から救済しているということは、法性法身は方便法身を生ずるはたらきを原理的に持っているとしか考えられません。それを私は「如来原理」と称しています。普通は物語として、法蔵菩薩が一如宝海から誕生して誓願を起こし、それを成就して阿弥陀如来となったと表現されますが、私は一如宝海である法性法身そのものが誓願を内包していて、それを実現するために法蔵菩薩を誕生せしめ、誓願を成就して阿弥陀仏になったと理解しています。それが「如来原理」です。如来の「智慧と慈悲」のはたらきは、私たちの認識を超えた不可思議の法性法身にその源があったのです。
図の説明を続けます。
右上の実線で囲まれた《茶色の円: 穢土・〈われーそれ〉》 は、私たちがこの世へ〈われーそれ〉という分別心をもって生まれたときの世界です。私はそれが「生苦」だと理解しました。分別心で心が引き裂かれますから、〈生まれる苦しみ〉は〈生きる苦しみ〉になり、苦悩の人生がはじまります。
右上の《茶色の円》と左の《青色の円》は、斜めの線で区切られていますが、完全に区切ってはいません。それは、どちらも法性法身の中に在ることを意味します。
あるとき私は、子供を亡くしたお母さんから質問を受けました。「私は仏法に遇えたけれど、幼くしてなくなった子供はどう考えればいいのでしょうか。」それはわが子を思う母親の切実な問いかけでした。私は、「仏法を聞く機会のなかった幼子も法性法身の中です。その子は、それを知らないで娑婆の命を終えましたが、仏法に遇ったあなたは、幼子もまた法性法身の中だと受けとめてあげることができます。それがあなたにとっての幼子の救いです。」と話しました。するとその方は、こころなしか涙ぐみ安堵の表情を浮かべました。
仏法を聞いた人も聞かなかった人も法性法身の中で、本当は誰も皆、「阿弥陀の御いのち」を生かされているのです。ただ本人が仏法を聞く機会に恵まれなければ、自らが法性法身の中にあることを知らないままに一生を終えることになります。現に今、仏法を聞く機会に恵まれた私たちは、この貴重な機会を無駄にしたくないものです。
図の説明を続けます。
斜線より左は、仏法を聞く機会に恵まれた人の生きる世界です。破線で囲まれた《青色の円: 浄土・〈われーなんじ〉》 は、方便法身を表わします。この方便法身の中にも
《茶色の円》がありますが、右上の《茶色の円》 との違いは、囲む線が破線で表現されていることと、《青色の円》の浄土の中にあるということです。その二つの 《茶色の円》の違いと、方便法身の中の《茶色の円》の内容をたずねてみます。
一念・多念のあらそいをなすひとをば、異学別解のひとともうすなり。異学というは、聖道外道におもむきて、余行をし、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり。別というは、ひとつなることをふたつにわかちなすことばなり。解は、さとるという、とくということばなり。念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆえに、別解というなり。また、助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり。自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(『一念多念文意』: 真宗聖典 541頁)
「異学」は、聖道門の教えを聞く人と、仏教以外の教えを聞く人(外道)にわかれます。これらの人々は、どちらも自力だけをたのみとする生き方です。仏教以外の教えを聞く人(外道)が右上の実線で囲まれた《茶色の円》を生きる人です。それは私たちが〈われーそれ〉という分別心をもって誕生した世界で、一生涯、仏教の教えを聞くことがなければ、その世界で生涯を終えます。
斜線より左は、聖道門、浄土門に関係なく仏道を歩む人の世界を表わしています。
今回、図にはしていませんが、聖道門には斜線より左の《青色の円:方便法身》はありません。聖道門を歩む人は、直接、方便法身なしの《茶色の円》から法性法身を悟ろうとする自力の人です。能力のあるごく限られた人しか歩めない難行道です。
浄土門の最大の特徴は、破線で囲まれた《青色の円:方便法身・浄土》があることです。万人に開かれた易行道です。しかし、「難信易行」といわれるように、「難信」という課題があります。「別解」というのはそれに関係します。
『一念多念文意』には「別解とは、念仏をしながら他力をたのみとしない。如来より与えられた念仏をしていながら、それを自力の行として理解している」とあります。それを図で確認します。《青色の円》は、仏法を聞く機会に恵まれ往生浄土を願う世界ですが、その中に破線で囲まれた《茶色の円》があります。別解とは、その破線で囲まれた《茶色の円》の中で、方便法身の〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを〈なんじ〉と受け止めることができないで、その〈なんじ〉を〈それ〉と聞いて、〈われーなんじ〉を〈われーそれ〉に転落させ、その〈われ〉を生きることです。別解とは分別して理解することで、このとき「聞」は「信心」になりません。それが自力を生きる第一九願、第二〇願の問題です。
阿弥陀仏は法蔵菩薩の因位の誓願と修行に報いて仏となった報身仏ですから、その浄土は「報土」です。親鸞聖人は如来の誓願に真と仮とがあるのでこの「報土」について「真仮」をわけ、「真実報土(真仏土)」と「方便化土(化身土)」を立てました。私は、「法蔵菩薩の因位の誓願と修行に報いて」の「報いて」は、如来原理による自然のはたらきをそのように表現しているのだと理解しています。
別解の人も、報土 《青色の円:〈われーなんじ〉》 の住人であることは間違いないのですが、存在する場所が方便化土(化身土)です。聖典の辺地・懈慢界・疑城胎宮というのは、この化土のことです。親鸞聖人は、
他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。〜 他力のなかには自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力の中の自力のひとびとなり。
(『御消息集』 : 真宗聖典 580頁)
と述べています。「他力の中に自力ということがある」とは、《青色の円:方便法身》の中の破線で囲まれた《茶色の円》の中に化土があるということで、「報中の化」といわれます。他力の中の自力の人というのは、阿弥陀仏の本願を疑う第一九願・第二〇願の自力の行者で、阿弥陀に関係のないさまざまな行を修めたり、心を集中させてやる念仏や、心が散漫なままでやる念仏を利用して往生を願う人です。化土は衆生の業因がさまざまであるので果相もさまざまで、諸機格別の世界です。
《青色の円:方便法身》の中の破線で囲まれた《茶色の円》の中には、自らの分別心を離れ阿弥陀仏に南無して生きる第一八願の人がいます。そのことを親鸞聖人のお手紙には、
弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。かように義のそうろうらんかぎりは、他力にあらず、自力なりときこえてそうろう。他力ともうすは、仏智不思議にてそうろうなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえてそうろうなることをば、仏と仏とのみ御はからいなり。さらに行者のはからいにあらずそうろう。しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうすなり。他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。
(『御消息集』: 真宗聖典 581頁)
とあります。この手紙のすばらしい現代語訳が『親鸞書簡集』(法蔵館)にありますので、あえて手を加えずそのまま引用します。
「弥陀の本願を信じたうえは、『自らの分別心を離れることを本義とする』というのが大師法然聖人のお言葉でありました。このお言葉が示すように、我々の分別心がはたらく限りは、他力にお任せしているのではなく、自力をたのみとしているのであると考えられます。また、他力というのは私たちの思議を超えた仏の智慧のはたらきでありますから、煩悩を具えた凡夫がこの上ない覚りを得ることができるのは、まさに仏と仏とのみの御はからいであり、決して行者自身がはからうことではないのです。それゆえ、他力とは我々の分別心を離れることを本義とすると言われるのです。思議分別というのは、自らの力を頼みとする人のはからいを言います。ですから、他力においては、分別心を離れることをその本来の意義とすると言われるのです。」何度読んでも心に響く文章です。
他力とは、弥陀の本願を信じて私たちの分別心(自力)を離れることを本義とすることです。その分別心を離れた人とは、方便法身の〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを「如実(にょじつ)(あるがまま)に聞く」ことができます。そのとき「聞」は「信心」となります。
『歎異抄』にも、「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」、「念仏者は無碍の一道なり」「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々。」と、同じ内容が繰り返し述べられています。
親鸞聖人の『正信念仏偈(源信)』に
極重悪人唯称仏 (極重の悪人は、ただ仏を称すべし。)
我亦在彼摂取中 (我また、かの摂取の中にあれども)
煩悩障眼雖不見 (煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども)
大悲無倦常照我 (大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。)
(『教行信証』行巻 真宗聖典: 207頁)
とあり、私はその偈は第一八願の信心というものをよくあらわしていると考えています。
右上の実線で囲まれた《茶色の円:穢土・〈われーそれ〉》の〈われ〉は、「煩悩が眼をさえぎって見ることができない」ことを知らず、自らの力で正しくものを見ることができると考えて生きています。つまりそれが自力の心です。しかし眼があっても、光がなければ闇です。光がなければものは見えません。光とは如来のはたらきです。
《青色の円》の中の破線で囲まれた《茶色の円:穢土・〈われーそれ〉》 の〈われ〉は、「煩悩が眼(まなこ)をさえぎって見ることができない」ことがうなずけている〈われ〉です。それが「機の深信」です。本来なら「煩悩が眼(まなこ)をさえぎって見ることができない」ならば、何も見えません。しかし信心とは、如来のまなざしを賜ることですから、「煩悩が眼をさえぎって見ることができない」(機の深信)という自覚とともに、『我亦在彼摂取中』 (我もまた、かの阿弥陀仏の光明の摂取の中にあり)・『大悲無倦常照我』 (大悲倦きことなく、常に我を照らしていてくださる)」(法の深信)という自覚が同時に成立します。それが「機法一体」の信心です。
《青色の円》の中の《茶色の円》が破線で囲まれていることは、臨終の一念まで〈われーそれ〉の穢土を出ることは出来ないことを意味します。その自覚が「機の深信」です。しかし、実線でなく破線で囲まれているということは、信心の人は穢土に居ながら浄土の〈われーなんじ〉の呼びかけが聞けるということです。
親鸞聖人は、
光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居(こ)す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心のひとのこころ、つねにいたりというこころなり。 (『御消息集』 真宗聖典 : 591頁)
と述べています。隙間(破線)を通って、心地よい浄土の風(南無阿弥陀仏)が穢土に吹きわたります。穢土に居て、他力念仏を生きることを「正定聚不退に住す」といいます。往生浄土の願いが隙間を誕生させ、聞法を継続一貫することが隙間を広げることになると考えてはどうでしょうか。それが「聞熏習力」です。
〈われーなんじ〉を生きるということは、〈われ〉は〈なんじ〉となり、〈なんじ〉は〈われ〉となります。阿弥陀仏は私に至り届き、私のいのちとなります。法蔵菩薩は尽十方無碍光如来・阿弥陀仏となり、現に今、一切の衆生を救済しつつあります。人間が生まれるときに見失った一如の世界を回復する道は、阿弥陀仏の本願を深くうなずいて、それを根拠に生きることです。
講題「仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」の話をこれで終わらせていただきます。九〇分の予定が四時間近くになってしまいました。長い時間、お付き合い、ありがとうございました。
註;『真宗聖典』は東本願寺出版部発行を引用しています。
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