聴法録360-1
如来原理: 法性法身から方便法身へ
この浄土が実現される過程とそのはたらきをたずねてみましょう。
皆さんには、カラーコピーした資料を一枚お配りしています。図の中の〈われーそれ〉、〈われーなんじ〉は、マルティン・ブーバーの「我と汝」のところで説明しましたのでそこを参照して下さい。まずその図全体の説明からはじめます。
右下に大きな字の「法性法身」がありますが、白い背景すべてが法性法身を表わしています。破線で囲まれた青い円の領域が「方便法身」です。
親鸞聖人は、法性法身と方便法身の関係について、ほぼ同じ内容のことを『唯信鈔文意』と『一念多念文意』に記しています。
法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。 (『唯信鈔文意』 真宗聖典:554頁)
この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を、南無不可思議光仏とももうすなり。この如来を方便法身とはもうすなり。方便ともうすは、かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうをもうすなり。すなわち、阿弥陀仏なり。この如来は、光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。」
(『一念多念文意』 真宗聖典:543頁)
資料の図の背景である「法性法身」は、色もなく、形もなく、思いもおよばない、言葉でも言い表せない、つまり私たちの一切の概念、認識、表現をこえた無分別の真如そのものです。(それを承知の上で、ことばで表現する以外に道はありません。このように実体のないものに名称を与え仮に名づけることを仮名(けみょう)といいます。法性法身は仮名です。) 結局、分別でしかものを認識できない私たちは、私たちの存在の根拠である大切な法性法身を認識できないのです。私たちは五感の範囲内でわかるものしかわからないのです。それだけなら法性法身は私たちと無関係です。
しかし「この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり」とあります。一如から方便法身として法蔵比丘(菩薩)が誕生します。一如とは、もののありのままのすがたはあらゆる差別的な相を超えた永遠不変の世界ということで、法性法身のことです。方便法身とは、真如そのものである法性法身が衆生救済のために名を示し形を現わした仏身のことです。分別でしかものを認識できない私たちのために、法蔵菩薩は、涅槃・法性法身と同じはたらきをなす国土を第一につくりたいと願い、その願いが成就して尽十方無碍光如来となったのです。国土・浄土の建立こそが、自らの分別ゆえに恐れおののいて生きている一切のものに、大きな安らぎをとどけることが可能な唯一の道だったのです。無分別の法性法身が自ら方便法身という分別になったのです。つまり〈われ〉も〈なんじ〉も無い世界から、〈われーなんじ〉となり、〈なんじ〉と呼びかけていたのです。
親鸞聖人は、法性法身と方便法身の関係をあらわすために『浄土論註』を引用しています。
一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。
(『教行信証』証巻 : 真宗聖典 290頁)
図の法性法身と方便法身は、「法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身あらわす」という関係を表わしています。《青色の円:方便法身》が実線でなく破線で囲まれていることは、「この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じではない」ことを、『讃仏偈』でいえば、「國如泥? 而無等雙」(国泥?のごとくして、等双なけん)の「如(ごとくして)」を表現しています。
しかしなぜ、法性法身は方便法身を生ずるのでしょうか。私の理解を超えていて、ただただ不可思議です。しかし現にはたらきをなし、私たちを無明煩悩の闇から救済しているということは、法性法身は方便法身を生ずるはたらきを原理的に持っているとしか考えられません。それを私は「如来原理」と称しています。普通は物語として、法蔵菩薩が一如宝海から誕生して誓願を起こし、それを成就して阿弥陀如来となったと表現されますが、私は一如宝海である法性法身そのものが誓願を内包していて、それを実現するために法蔵菩薩を誕生せしめ、誓願を成就して阿弥陀仏になったと理解しています。それが「如来原理」です。如来の「智慧と慈悲」のはたらきは、私たちの認識を超えた不可思議の法性法身にその源があったのです。
図の説明を続けます。
右上の実線で囲まれた《茶色の円: 穢土・〈われーそれ〉》 は、私たちがこの世へ〈われーそれ〉という分別心をもって生まれたときの世界です。私はそれが「生苦」だと理解しました。分別心で心が引き裂かれますから、〈生まれる苦しみ〉は〈生きる苦しみ〉になり、苦悩の人生がはじまります。
右上の《茶色の円》と左の《青色の円》は、斜めの線で区切られていますが、完全に区切ってはいません。それは、どちらも法性法身の中に在ることを意味します。
あるとき私は、子供を亡くしたお母さんから質問を受けました。「私は仏法に遇えたけれど、幼くしてなくなった子供はどう考えればいいのでしょうか。」それはわが子を思う母親の切実な問いかけでした。私は、「仏法を聞く機会のなかった幼子も法性法身の中です。その子は、それを知らないで娑婆の命を終えましたが、仏法に遇ったあなたは、幼子もまた法性法身の中だと受けとめてあげることができます。それがあなたにとっての幼子の救いです。」と話しました。するとその方は、こころなしか涙ぐみ安堵の表情を浮かべました。
仏法を聞いた人も聞かなかった人も法性法身の中で、本当は誰も皆、「阿弥陀の御いのち」を生かされているのです。ただ本人が仏法を聞く機会に恵まれなければ、自らが法性法身の中にあることを知らないままに一生を終えることになります。現に今、仏法を聞く機会に恵まれた私たちは、この貴重な機会を無駄にしたくないものです。
図の説明を続けます。
斜線より左は、仏法を聞く機会に恵まれた人の生きる世界です。破線で囲まれた《青色の円: 浄土・〈われーなんじ〉》 は、方便法身を表わします。この方便法身の中にも
《茶色の円》がありますが、右上の《茶色の円》 との違いは、囲む線が破線で表現されていることと、《青色の円》の浄土の中にあるということです。その二つの 《茶色の円》の違いと、方便法身の中の《茶色の円》の内容をたずねてみます。
一念・多念のあらそいをなすひとをば、異学別解のひとともうすなり。異学というは、聖道外道におもむきて、余行をし、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり。別というは、ひとつなることをふたつにわかちなすことばなり。解は、さとるという、とくということばなり。念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆえに、別解というなり。また、助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり。自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(『一念多念文意』: 真宗聖典 541頁)
「異学」は、聖道門の教えを聞く人と、仏教以外の教えを聞く人(外道)にわかれます。これらの人々は、どちらも自力だけをたのみとする生き方です。仏教以外の教えを聞く人(外道)が右上の実線で囲まれた《茶色の円》を生きる人です。それは私たちが〈われーそれ〉という分別心をもって誕生した世界で、一生涯、仏教の教えを聞くことがなければ、その世界で生涯を終えます。
斜線より左は、聖道門、浄土門に関係なく仏道を歩む人の世界を表わしています。
今回、図にはしていませんが、聖道門には斜線より左の《青色の円:方便法身》はありません。聖道門を歩む人は、直接、方便法身なしの《茶色の円》から法性法身を悟ろうとする自力の人です。能力のあるごく限られた人しか歩めない難行道です。
浄土門の最大の特徴は、破線で囲まれた《青色の円:方便法身・浄土》があることです。万人に開かれた易行道です。しかし、「難信易行」といわれるように、「難信」という課題があります。「別解」というのはそれに関係します。
『一念多念文意』には「別解とは、念仏をしながら他力をたのみとしない。如来より与えられた念仏をしていながら、それを自力の行として理解している」とあります。それを図で確認します。《青色の円》は、仏法を聞く機会に恵まれ往生浄土を願う世界ですが、その中に破線で囲まれた《茶色の円》があります。別解とは、その破線で囲まれた《茶色の円》の中で、方便法身の〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを〈なんじ〉と受け止めることができないで、その〈なんじ〉を〈それ〉と聞いて、〈われーなんじ〉を〈われーそれ〉に転落させ、その〈われ〉を生きることです。別解とは分別して理解することで、このとき「聞」は「信心」になりません。それが自力を生きる第一九願、第二〇願の問題です。
阿弥陀仏は法蔵菩薩の因位の誓願と修行に報いて仏となった報身仏ですから、その浄土は「報土」です。親鸞聖人は如来の誓願に真と仮とがあるのでこの「報土」について「真仮」をわけ、「真実報土(真仏土)」と「方便化土(化身土)」を立てました。私は、「法蔵菩薩の因位の誓願と修行に報いて」の「報いて」は、如来原理による自然のはたらきをそのように表現しているのだと理解しています。
別解の人も、報土 《青色の円:〈われーなんじ〉》 の住人であることは間違いないのですが、存在する場所が方便化土(化身土)です。聖典の辺地・懈慢界・疑城胎宮というのは、この化土のことです。親鸞聖人は、
他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。〜 他力のなかには自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力の中の自力のひとびとなり。
(『御消息集』 : 真宗聖典 580頁)
と述べています。「他力の中に自力ということがある」とは、《青色の円:方便法身》の中の破線で囲まれた《茶色の円》の中に化土があるということで、「報中の化」といわれます。他力の中の自力の人というのは、阿弥陀仏の本願を疑う第一九願・第二〇願の自力の行者で、阿弥陀に関係のないさまざまな行を修めたり、心を集中させてやる念仏や、心が散漫なままでやる念仏を利用して往生を願う人です。化土は衆生の業因がさまざまであるので果相もさまざまで、諸機格別の世界です。
《青色の円:方便法身》の中の破線で囲まれた《茶色の円》の中には、自らの分別心を離れ阿弥陀仏に南無して生きる第一八願の人がいます。そのことを親鸞聖人のお手紙には、
弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。かように義のそうろうらんかぎりは、他力にあらず、自力なりときこえてそうろう。他力ともうすは、仏智不思議にてそうろうなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえてそうろうなることをば、仏と仏とのみ御はからいなり。さらに行者のはからいにあらずそうろう。しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうすなり。他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。
(『御消息集』: 真宗聖典 581頁)
とあります。この手紙のすばらしい現代語訳が『親鸞書簡集』(法蔵館)にありますので、あえて手を加えずそのまま引用します。
「弥陀の本願を信じたうえは、『自らの分別心を離れることを本義とする』というのが大師法然聖人のお言葉でありました。このお言葉が示すように、我々の分別心がはたらく限りは、他力にお任せしているのではなく、自力をたのみとしているのであると考えられます。また、他力というのは私たちの思議を超えた仏の智慧のはたらきでありますから、煩悩を具えた凡夫がこの上ない覚りを得ることができるのは、まさに仏と仏とのみの御はからいであり、決して行者自身がはからうことではないのです。それゆえ、他力とは我々の分別心を離れることを本義とすると言われるのです。思議分別というのは、自らの力を頼みとする人のはからいを言います。ですから、他力においては、分別心を離れることをその本来の意義とすると言われるのです。」何度読んでも心に響く文章です。
他力とは、弥陀の本願を信じて私たちの分別心(自力)を離れることを本義とすることです。その分別心を離れた人とは、方便法身の〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを「如実(にょじつ)(あるがまま)に聞く」ことができます。そのとき「聞」は「信心」となります。
『歎異抄』にも、「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」、「念仏者は無碍の一道なり」「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々。」と、同じ内容が繰り返し述べられています。
親鸞聖人の『正信念仏偈(源信)』に
極重悪人唯称仏 (極重の悪人は、ただ仏を称すべし。)
我亦在彼摂取中 (我また、かの摂取の中にあれども)
煩悩障眼雖不見 (煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども)
大悲無倦常照我 (大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。)
(『教行信証』行巻 真宗聖典: 207頁)
とあり、私はその偈は第一八願の信心というものをよくあらわしていると考えています。
右上の実線で囲まれた《茶色の円:穢土・〈われーそれ〉》の〈われ〉は、「煩悩が眼をさえぎって見ることができない」ことを知らず、自らの力で正しくものを見ることができると考えて生きています。つまりそれが自力の心です。しかし眼があっても、光がなければ闇です。光がなければものは見えません。光とは如来のはたらきです。
《青色の円》の中の破線で囲まれた《茶色の円:穢土・〈われーそれ〉》 の〈われ〉は、「煩悩が眼(まなこ)をさえぎって見ることができない」ことがうなずけている〈われ〉です。それが「機の深信」です。本来なら「煩悩が眼(まなこ)をさえぎって見ることができない」ならば、何も見えません。しかし信心とは、如来のまなざしを賜ることですから、「煩悩が眼をさえぎって見ることができない」(機の深信)という自覚とともに、『我亦在彼摂取中』 (我もまた、かの阿弥陀仏の光明の摂取の中にあり)・『大悲無倦常照我』 (大悲倦きことなく、常に我を照らしていてくださる)」(法の深信)という自覚が同時に成立します。それが「機法一体」の信心です。
《青色の円》の中の《茶色の円》が破線で囲まれていることは、臨終の一念まで〈われーそれ〉の穢土を出ることは出来ないことを意味します。その自覚が「機の深信」です。しかし、実線でなく破線で囲まれているということは、信心の人は穢土に居ながら浄土の〈われーなんじ〉の呼びかけが聞けるということです。
親鸞聖人は、
光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居(こ)す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心のひとのこころ、つねにいたりというこころなり。 (『御消息集』 真宗聖典 : 591頁)
と述べています。隙間(破線)を通って、心地よい浄土の風(南無阿弥陀仏)が穢土に吹きわたります。穢土に居て、他力念仏を生きることを「正定聚不退に住す」といいます。往生浄土の願いが隙間を誕生させ、聞法を継続一貫することが隙間を広げることになると考えてはどうでしょうか。それが「聞熏習力」です。
〈われーなんじ〉を生きるということは、〈われ〉は〈なんじ〉となり、〈なんじ〉は〈われ〉となります。阿弥陀仏は私に至り届き、私のいのちとなります。法蔵菩薩は尽十方無碍光如来・阿弥陀仏となり、現に今、一切の衆生を救済しつつあります。人間が生まれるときに見失った一如の世界を回復する道は、阿弥陀仏の本願を深くうなずいて、それを根拠に生きることです。
講題「仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」の話をこれで終わらせていただきます。九〇分の予定が四時間近くになってしまいました。長い時間、お付き合い、ありがとうございました。
註;『真宗聖典』は東本願寺出版部発行を引用しています。
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