聴法録361-1
質疑応答
(司会) 志慶眞先生、長時間にわたりありがとうございました。皆さんも十分満足されたことと思います。先生が埼玉にいらっしゃるのはめったにないことで、もしこの機会にこれだけは聞きたいという人はいらっしゃいますか。
(林) 先生が細川先生と関先生の「往復書簡」をご覧になるまでは細川先生も疑いの対象でしかなかったという、率直なお話に非常に感動をいたしました。しかし今の私の心境は、疑いの段階であろうと思っております。先生がおっしゃったように変に妥協しないで「問い」をもち続けて、今後とも聞法に精を出させていただきたいと思います。そういう心境でありながら何を聞いても意味がないことかも知れないのですけれど、一つ質問というのは〈われーそれ〉の世界からの質問になってしまいますが、先生は〈われーなんじ〉の世界を現に生きておられると思うのですが、やはり〈われーそれ〉の世界というのは無くならないのだろうなと。質問が非常に抽象的になりますから、あえて具体化して言わせていただきますと、一日にたびたび仏様の世界に還らされるのでしょうか。やはり先生も色々な日常生活を送りながら〈われ〉の世界、腹が立つことも悲しいこともおありだと思うのですが、現在としては何回も、あるいはめったにそういうことはないけれども、その余韻というものがあって今までの生活は違ってきたのだということなのでしょうか。そのへん手短でけっこうですのでお訊ねしたいと思いました。
(先生) 煩悩具足の身ですから、腹が立つことも悲しいことも、さまざまな思いがおこります。いつも仏様のことを思っているわけでもないし、お念仏が出てこないときももちろんあります。しかし、私が仏様を忘れても、仏様は私のことを忘れていないという決着がついています。だから安心して煩悩の身を生きていけます。縁に触れて、お念仏はでます。子供を診察しながら、ふと「南無阿弥陀仏」と念仏がでます。親が変な顔をするのではっと我に返ります。
聞熏習」の話をしました。お念仏の教えが私たちの深いところに降りていくのだろうと思います。聞法が大事です。「聞思修」(聞いて考えて努力すること)が「聞信称」(聞くままが信でありお念仏)になります。煩悩の思いは臨終の一念まで無くなりません。大切なことは、自分の思いは当てにならないと目が覚め、阿弥陀さんを根拠に生きることです。
(司会) 貴重なお話をありがとうございました。
(淡海) どうもありがとうございました。以前、沖縄を訪問したさいもブーバーの話を聞かせていただきました。あれからいろいろ本を読んだりして考えました。それで実は、〈われーそれ〉と〈われーなんじ〉という時の〈われ〉のことです。今日先生が「方便法身」の中にドーナツ状の「穢土」における〈われーそれ〉をお示しくださったのですが、そこにいる〈われ〉と〈われーなんじ〉の〈われ〉とは同一ではないと考えられていますか。つまりそれは、「回心」した形での〈われ〉という意味をとられているのですか。「穢土」における〈われーそれ〉というのは二つのものを分別心で見ている〈われ〉です。現実の私たちが「世法」においてはたらいている世界でございます。そして中における〈われ〉は仏法に遇わせていただいた〈われーそれ〉は回心した〈われ〉という観念でお話をしているのでしょうか。
(先生) 茶色の「穢土」における〈われーそれ〉が、右上と左のブルーの方便法身の中とふたつあります。右上の茶色の〈われーそれ〉は、〈われーそれ〉の〈われ〉を根拠に生きている世界の〈われ〉です。ブルーの方便法身の中の茶色の「穢土」における〈われーそれ〉は無くならないけれども、〈われーなんじ〉と呼びかけられた世界にいることがうなずけているから、妄念妄想の〈われーそれ〉の〈われ〉を離れ、浄土の〈われーなんじ〉の呼びかけに呼応して、〈われーなんじ〉の〈われ〉を生きる身になるということです。それは回心によって成立します。それが一八願を生きるということです。一生涯、穢土から出られません。それが「出離の縁あることなし」です。〈われーなんじ〉の世界から〈なんじ〉と呼ばれている〈われ〉を生きるということです。穢土の隙間から浄土のそよ風を受けて生きるということです。あるがままに「如来の御(おん)一日を、如来の御(おん)いのちを生きさせていただきます。」
しかし、ブルーの方便法身の中にいながら〈われーなんじ〉の〈なんじ〉を受け取れない人は、〈われーそれ〉の〈それ〉を生きることになります。一九願、二〇願の問題です。
(淡海) 〈われーそれ〉はなくならない、あるがままにということですか。
(先生) 〈われーそれ〉というのは分別心です。分別心を離れるというのは、〈われーそれ〉の〈それ〉を根拠にしないということですが、そのことが成立するのは〈われーなんじ〉の〈なんじ〉の呼びかけが聞こえているからです。そのとき「聞」が「信心」となります。〈われーそれ〉はなくなりません。
(淡海) 〈それ〉がなければ見えない。
(先生) 直接、仏様は見えません。しかし煩悩に眼(まなこ)が妨げられて見えないけれども、仏様の大悲の中に常に居ることがうなずけます。「煩悩に眼(まなこ)が妨げられて見えない」とわかるのが「機の深信」、「仏様の大悲の中に常に居る」とわかるのが「法の深信」です。〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけにうなずくと、〈われーそれ〉の〈われ〉を離れることができます。〈われーそれ〉の〈われ〉が障りにならないということです。
(淡海) そうしますと、〈われーなんじ〉という言い方をされた時、その〈われ〉は私を言っているのですか。如来がわれと呼びかけているという、さっき先生がお話の仕方をされていましたけれど、通常同じ〈われ〉だとIchという話になるわけですから、そうしますと私自身が「なんじ」という呼びかけ、それが変わった形で「なんじ」が私に呼びかけているというとらえ方をするということですか。
(先生) 〈われーそれ〉は〈われ〉と〈それ〉が別々ですが、〈われーなんじ〉は関係性の世界ですから二つに切れないのです。〈われ〉は〈なんじ〉であり、〈なんじ〉は〈われ〉であります。仏様のほうが私に〈なんじ〉とまず呼びかけるのです。「二河白道」でも「阿弥陀如来」が私を〈なんじ〉と呼ぶ。私が〈なんじ〉と呼ぶに先立ってわたしが〈なんじ〉と呼ばれていた。私からは〈それ〉しかでてこない。仏様の方が私に〈なんじ〉と呼んだ。「不請(ふしょう)の友」とあるでしょう。『大無量寿経』にありますね。招(まね)かないのに向こうの方が私を〈なんじ〉と呼ぶ。「不請の法」もあります。招かないのに法(ダルマ)が私を包む。如来が先に私を〈なんじ〉と呼ぶ。〈なんじ〉と呼ばれて、〈われーそれ〉の〈われ〉しか生きてないことに目が覚めて〈なんじ〉と呼ぶようになる。だから、〈われ〉は〈なんじ〉であり、〈なんじ〉は〈われ〉となります。そういう関係性の〈われ〉を生きるということです。
(淡海) そうしますと曽我量深先生がおっしゃている言葉に関係してくるのですね。「如来は我なり
されど我は如来に非ず 如来我となりて我を救いたもう」
(先生) 仏様が私に〈なんじ〉と呼ぶ。思うのですけれど、たとえば子供が「お母さん」と呼ぶのは、お母さんが常に私はお母さんよ、お母さんよと呼びかけるから私から「お母さん」ということばが出るようになる。私たちは、私を愛する者の名前を呼ぶようになる。仏様が私を〈なんじ〉と呼んでくれる。だから私から〈なんじ〉が出てくる。先に呼んでいるのは仏様なのです。私からではない。
(淡海) 「如来」が私に呼びかけているのが最初である。
(先生) 自分の方から〈なんじ〉と呼ぶのは〈それ〉でしかないと思う。ブーバーは私から〈なんじ〉と呼べると書いてあります。細川先生もそういう風に話していました。細川先生はブーバーの言っていることをそのまま素直に言っているから正しいのです。ただ私は浄土真宗からすると、私から先に〈なんじ〉はでてこないと思っています。
(淡海) 「永遠のなんじ」ということばをブーバーは出されますね。
(先生) ただそれも最終的には私がなんじと呼べると書いてある。私は私から〈なんじ〉は出てこないと思っています。
(淡海) あくまでも呼びかけられる身であると。
(先生) そうです。それが「聞(もん)」です。「聞」が「信心」です。百パーセント煩悩であるから〈なんじ〉はでてこない。しかし、私は冷たいけれども火の暖かさを感じることができる。だから仏様の〈なんじ〉という呼びかけに私はうなずける。それが賜るということです。
(淡海) ブーバーの話イコール先生のお話として読むものですから戸惑います。それは違うということが良くわかりました。関係性ということで。
(先生) 私はブーバーを研究しようとか、正しく解説しようとか思ったのではなく、ブーバーに触発されて浄土真宗をどう受け取ろうかということが私の課題でした。本にも書きましたが、ブーバーの元々の考えとは違うと。ブーバーは私から〈なんじ〉と呼べると。でも私が〈なんじ〉と呼んだのが〈それ〉でないとどうして言えるのでしょうか。今のは〈なんじ〉、今のは〈それ〉だというのは、人間の計らいでしかないと思う。そうであるのなら私たちは、ただ呼ばれているということに頷(うなず)くしかないと思う。そこから仏様との関係が生まれる。
(淡海) 私もこちらから「如来」に呼びかけるという形になると、何処までも如来を〈それ〉というふうに見てしまうという問題点があるな、と思っておりましたので今日そこが良くわかりました。
(先生) ただ、調べてみますとブーバーの時代にも、そのことを指摘して論争をした人がいるのです。私から〈なんじ〉は出ないということを主張した人があの時代にもいたのです。しかしその考えは、世の中に広まらなかった。多分、その背景にユダヤ教やキリスト教の教えがあるからだと思います。ユダヤ教やキリスト教は私から「神よ!」と呼びかけて祈りますからね。仏法からすると違う視点が見えるのではないかと思います。
(淡海) どうもありがとうございました。
(司会) どうもたいへん長らくお疲れ様でした。最後に「恩徳讃」を歌って、終わりにしたいと思います。
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