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| 聴 法 録 38 |
聴法録38-1
「老少善悪のひとをえらばれず」
赤ん坊も生かされて生きているのだ、年とった我々も生かされて生きとるんです。
赤ん坊も、空気を吸って生きておるし、心臓が動いて生きとるけど、その赤ん坊も、心臓は自分で動かすものでない。空気も自分で吸ったり吐いたりするものでない。これは無意識に吸ったり吐いたりしている。これは、赤ん坊も、生かされて生きてる。我々も生かされて生きて生きてる。そういう点では、赤ん坊も我々も同じだと。人殺しをしようとも、これも空気を吸っておらなければできないし、心臓が動いていなければできない。だから、もし人殺しをするのが悪いと言うことであれば「善悪をえらばれず」でない。
仏と言うのは、そこが慈悲心と言うことになるんでしょうけれども、人殺しをするものでも生かしておるのではないか。そういう点で老少善悪をえらばれずというのは、生かされて生きておる事実である。
救われると言うことは、生かされて生きておることがわかることである。つまり、我々を生かす。我々の方からいうと生かされて生きていると言うことが、我々を生かしておる方からいうと、我々を生かさせる。我々を生かしているのを、法身仏という又、真実のいのちという。「離言の法性」と、こういわれる。離言というのは、言葉で言い表せない。「こころもことばもおよばず」言葉を超えておる。人間の言葉で表現できない。だからこれを分かりやすく「はたらきそのもの」と称している。
「はたらきそのもの」といっても分からんので、これは風のようなものと、風というのは風そのものを見ることは出来ないけれども、風がおこす現象を通じて、風の存在を我々が知ることが出来るように、具体的なものを通して「はたらきそのもの」を我々は察することが出来る。
この法身仏、真実のいのちというものが、仏の大本であってこれが分かると言うことが、人間にとって一番大切なことです。 |
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