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| 聴 法 録 385 |
聴法録385-1
現在の生涯から他の生涯に移ることは至難である
良心を満足させるだけの準備が出来るまでという口実を設けて、良心の指示から逃避するのは甚だしい誤りだ。
人間は、現在の生活から脱出して未来の生活に移ることは出来ない。未来は現在の生活から見て一切不明であるから、良心の指示には、その場に於いて従はねばならぬ。私達の生活は、現在における善と愛との完成のためだ。この行為のみが重要である。総て私達は、生涯の、その瞬間を善用して、正しく生きることが肝腎だ。
人間はいつ死ぬかも予測できない。次の瞬間は無いと同じだ。だから力のあらん限り善を実践して、人間の使命を果たそうではないか。
自分が病気にかかったことを認めた場合は、必ず治すことを考える。これは「今、私は病気でなすべきことを為し得ないが、全快したら必ず実行する」と言う事になる。と同時に、与えられたものに不満を感じ、与えられなかったものを要求することでも、然し、この念は一種の誘惑である。私達は、現在のこの生涯に与えられてあるものが必要であること、そして、今現に持っているものを作り得たことについて喜びを感じなければならない。
「私が成長したら、学校を卒へ、妻を迎えて立派な生活をしたい。若し、子が生まれたらやはり十分な教育を与え、彼に妻を迎える頃には、私は富者となり適当な土地に家を建て、老年になれば、さて、ああもしたいこうもしたい…」などと、人は先のことを考える。こうして、人は未来に就いて遺憾なく考慮をめぐらしているが、一体、私達は、明日まで生きていられるか。これは、誰にも保証できないのだ。
一つの仕事が完成するまで生きていられるのか、どうか解らないのだと、考えると人間は実に哀れな存在といはねばならぬ。然し、私達の生活にも、死の恐怖を受けずに済むことがたった一つある。それは、内在する真実の生命の実践、つまり隣人への博愛である。
「こんな境遇にいては何をすることも出来ぬ」とは、まゝ私達のもらす愚痴であるが、これは明らかな誤りだ。人間に真の生命をもたらす徳は、獄中でも、病床でも又労働中に於いても、辱められていても、遂行できる。
内在する真実の生命的な生活は、その心次第で自己のものとない得るのだ。
時と場所は問はないのである。人間の心は、人を責め、批判し妬み、憎むことも自由にできるが、又これを抑えつけて善化することも出来る。
人間の道徳的生涯には、時と場所の制限がない。
聴法録385-2
「私はこんなことはしない」と言うより「私は以前にこんなことをしなかった」と言うべきである。現在のこの瞬間に何をしているか、を私自身よく知っているし、又これを知るのは最も必要なことです。
現在という状態は、運命を決する大切な場所である。心もメモに、今日は良い日、今は良い時、この瞬間は良い瞬間だ、と明記せよ。この日、この時、この瞬間は汝自身のものである。
生涯を幸福に過ごそうとするなら、この瞬間に於いて善を行なえ。生命は現在に於いてのみ、その力を発揮するものであるから。
生涯に対して悪い感じを持つのは、自己の希望通りに物事が進捗しないからだ。若し、この生涯が変ったら、万事が容易になるだろうと考える人があればそれは大変な間違いである。然し希望することが善である場合は、いつでも実行し得る資格があるから、生涯の各瞬間は善に満ち溢れている訳だ。
生命の為に、生涯のこの瞬間に於いて最も良いものは、「現に有する何かである」それ以外に希望するのは不合理である。
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