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| 聴 法 録 39 |
聴法録39-1
できたか、できなかったかそれを聴く前に、いったい全我を捧げてかかったか否かを問います。全我を捧げてかかった仕事だけが、本当の仕事であります。全我を捧げるとは、我を捨てることであります。一事の中に私を捨てることであります。
自分を捨てるとは、言いやすくして困難のことであります。しかし自分の全体を捧げないものには決して真の生活の創造はありません。 勉強の中に、仕事の中に、睡眠の中に、全て自分を投げ出してゆくところに、その人だけに与えられた天地があります。
自分のある部分を出して、他の者たちに調和させようとすれば、きっと不平の爆発か、精神的な死が訪れます。全我を捧げるとは自分の世界を自分で行くことであります。決して他の追従を許しませぬ。力一杯にやることは、のびゆく尊い姿であります。清々とのび行く草の芽の先端には天地の生気が踊っています。
幸福必ずしも人生の勝利ではない。しかし真との勝利者は幸福の人である。
火事があったら亡んでしまう程度の幸福がある。
老人になったら亡んでしまう程度の幸福がある。
貧しくなったら亡んでしまう程度の幸福がある。
病気になったら消えてしまう程度の幸福がある。
今の立場から去ったらなくなってしまう程度の幸福がある。
死が来たら何もなくなる程度の幸福がある。
我々は深く考えてみたい。
建物と商品だけが現在の幸福の柱であるならば、火事があったらなくなってしまう。
美人であることや、力の強いことが幸福を支えているならば、年を取ったら亡んでいく。
家柄や財産があなたの全部であるならば、貧しくなったら、幸福は消えてゆく。
事業家であることが幸福の全部であるならば、病気が出来たらなくなる程度の幸福である。
高等官であることがもし幸福であるならば、辞令で飛んでゆく程度の幸福である。
大概の幸福が死が来るまでは役立つ。しかし幸福の賛歌を口ずさみつつ、死の幕にいりうる人が何人あろう。
今のように無神論や乱暴な科学的人生観の上に立っている人の多い時には、「死は消えることだ」と言いつつ平気で死んでゆく人はいくらでもある。
平気であることは、尊いことではない。平気は大胆なのである。
死によってさえ亡ばぬ幸福、それには平気以上の輝きがあり、よろこびがある。
千人の幸福者を見ることが出来る。しかし一人の苦悶者を見出し得ない。浅薄ないっさいの幸福を引き破って、永遠の幸福を考える一人の苦悶者を見出し得ない大聖釈尊曰く「往き易くして人なし」と。
手近かな幸福に酔って明日を思わず、来年を考えず、ついに永遠を考えないのは凡人の悲しさである。永遠を考えよとは、取り越し苦労をせよと言うのではない。
真の自己に帰れ
もっと深さに根ざした世界にいでよ。 |
聴法録39-2
真の永遠は如来のみである。
真の清さは如来のみである。
真の力は如来のみである。
真の荘厳浄土、仏土の建設は如来のみ可能である。
如来の願心のみが、争闘や苦悩を超えた世界を作る。
今や如来の願心は高い聖者の峰に現れずに、一切衆生の病む大地の底に動きでた。
如来願心の叫びは煩悩の林、生死の園に聴こえている。これを体験し、この声を聴き、これと一体になった者のみが、永遠の勝利者であり、永遠の幸福者である。
真の信仰とは、永遠の生命の上に立つことである。
如来の願心のみ永遠である。
如来の願心の上に立つ者もまた永遠である。
火にも焼けず、貧困にも消えず、老病死にも失われず、善も要なく、悪にもさえられず、その他一切のもの皆に亡ぼされぬ如来の願心。その願心の中のみ、永遠の微笑と、真の自由と、浄土への往生がある。
道端の一茎の花、それはいと小さいかもしれぬ。
しかし彼の上には春が踊っている。
小さく生まれためぐまれた一人の人間、それはいと小さいかもしれぬ。
しかし愚者の上にも凡人の上にも如来は踊る。桜の上に訪れた春も、小さいすみれの上におどる春も、春は春である。
高僧聖者と名も無い老婆と形こそちがえ、太さこそ変われ、如来回向の春には寸分の差異は無い。
そこに平等の世界がある。
「至心に精進せよ!」
との声を感じつつ合掌する。
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