聴  法  録  390

聴法録390-1
不謹慎な心と良心との争い
物事を行なうたびに、先ず、その行為の善悪を判断するようにせよ
悪事を行はぬためには、すべての行為を慎むだけでは不安全である。悪い談話や悪念を抑えつけてしまうことが肝要だ。人と対談中第三者を嘲り、非難し攻撃する場合があるが、悪いと気がついたら、直ちに沈黙せよ。人の嘲罵誹謗は冷静にこれを聞き、他人を悪く思う事があれば、その曲直を糺すまでもなくこれを捨て、これ等に関係のない他のことを考えよ。そして、悪い言葉や悪い思想を抑えていれば、逐次に悪から遠ざかることが出来る。どんな努力を続けていても、欲望には絶対に勝てないなだと失望するのは早い。努力はついに欲望を弱めて、勝利の端緒を与えてくれる。


馬子は自由に馬を止めることできるが、決して手綱を離さない。こうしていると馬は自然に馬子の命令に従うようになる。欲と人間の関係もこれと同じことだ一挙に欲を制し得ぬからとて落胆する必要はない。欲との争いを不断に続けていれば、結局は彼を倒すことが出来る。

欲には種類が多い。欲が人間を誘惑する手段を調べると、初めは頭を低くして、次には客人の如く、終りには主人の如くなって権力を振るってくる。この傍弱無人な欲を追っ払うには、先ず、彼が頭を低くして私達の歓心を買っているうちに、心の入り口を固く閉ざすことだ。

謹慎の意味
心の自由を、永久に維持しようと思うなら、欲望の対象を厳重に選定する必要である。

どんな人が最も賢いと云えば、誰からでも喜んで教えを受ける人であろう。どんな人が最も富んでいるかと言えば、自己の運命に満足する人がそうであろう。

聴法録390-2
キリスト教は、弱者の宗教である。それは謹慎と自制を教えるからだという。果たして、そうであろうか。見ようによっては、そうだといえるが、キリスト自身は十字架にかけられてもその教えに対しては、絶対の信条を持っていたその弟子及び彼の教えを信じる幾百万かの人々も、キリストに従った。制圧者が仕向ける事に勇敢に甘受し優しい目で彼等を眺めながら死についたのである
キリストを十字架にかけた長老や高官も、今現に私達の前で虚勢を張っているが、弱くて強いキリスト教徒を何よりも恐れているのだ。彼等は、この教えの根底に横たわる真理を認め、その発動によって自分たちの信念が壊滅するであろうことを想像しているのである。
謹慎や自制は、善行よりも実行すれば、人間の精神は強化され、生涯の道は明るくなる。

仮に人が海に落ちたとする。この場合に問題なのは、落ちた場所でなく、彼が泳げるかという事である。人間の生涯に於いても、問題なのは外部の諸条件ではなく、自分自身を処置する能力の有無である。

人間の真の力は、腕力にあるのではなく、自己を制して、その獣的な傾向を叩きつけ、内在する真実の生命を救うことにあるのだ。

獣的な欲望に耽ったり、快楽に没入するものは、遂には募りゆく行く欲の鎖に縛られて身動きが出来ぬようになる。欲を制し得る人のみがこの鉄鎖を断ち切るものだ。

汝の欲する快楽をさけよ。だが全部の虚脱が不可能ならば、せめて連続的な快楽をさけよ。この自制は、その感情的関係に於いて、将来の好結果をもたらすものだ快楽を享けると享けざるとは、自己の権内にあるのだと云う意識は観念的ではあるが、事実、快楽を得たとの感情よりは有効であり、影響する所も大きい。何故ならば、快楽に対抗する心構えは永続性を帯びているが、快楽が与える心の満足はすぐに消えてしまうものであるからだ。

善を盡して善人となることは人間の義務だ。善行は、人間を聖なるものとし、
光輝あるものとする。内在する真実の生命は透明無垢な瑠璃のようなものであり、人間はその中に入れられたもののようである。だから、粉塵や泥土で汚されていれば、直ぐにそれが見える。清浄無垢、光輝あるものならば、直ぐ周囲は明るく浄化されるだろう。私達の重大な責任は、この清らかなものとなって、内在する真実の生命を汚さぬようにすることである。