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              聴 法 録 40

聴法録40-1

あたり前を喜ぶ
悪性腫瘍のため右足を切断し、32歳の若さで亡くなられた医師、井村和清さんの「あたりまえ」という詩をご紹介します。

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いて行ける
手をのばせばなんでもとれる
音が聞こえて声が出る
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだと、笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝が来る
空気をむねいっぱいすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

以上のような詩であります。
確かに私たちは、目が見えることや手足がうごくことを、特に「ありがたいナー」と思ったことはありません。当たり前のことだと思っています。
なぜ喜ばないのか、なぜ当たり前にしているのかと言いますと、それらはすべて私たちが生きるに先立って備わっているからだと思います。
例えてみれば、物が豊かな時代に生まれた子供が、物のありがたみが分からないのと同じことことだと思います。生まれた時にはすでに物が溢れていますから、物があることは当たり前だと思うようなものです。

ところが、この詩にあるように
私たちが当たり前だと思っているものは、まことにかけがえのないものばかりです。それは、どれ一つ取り上げても人間が作り出すと言うことは出来ません。すべて頂き物です。しかも、その一つ一つには、私のいのちを生かす「ハタラキ」と言うものが備わっているのです。

例えば、「息をする」と言うことを考えてみよう。
私たちは生まれてこの方ずっと息をしています。もちろん、そんなことは当たり前なことだと思っています。ところが、息をするという行為は、実は自分の意志で息をしているのではありません。もし自分の意志で息をしているのであれば、おちおち眠ることもできないと思います。私たちが夜も安心してぐっすり眠れるのは、自分の意志で息をしているのではなく、息をさせる「ハタラキ」というものが備わっているからです。もちろん、この息をする「ハタラキ」は人間が作ったのではありません。また、息をするには空気がなければできません、その空気もまた人間がつっくたものではありません。

元京都大学の総長で脳生理学の世界的権威でもあられた平沢興先生は「私は朝、目が覚めると言うことが不思議でならない」といつもいっていたそうです。「一体どこからどんなハタラキがやって来て、私の目を覚ますのか。私はこの方面の研究を40数年間やってきたが、私を含め世界中の科学者でこの事を完全に説明できるものはおりません」といっています。

このように息をすることも、朝、目が覚めることも、当たり前のことだと思っていますが、そこには科学では解明できない不思議なハタラキがあるのです。そのハタラキは、人間を超えたハタラキです。またそのハタラキはあらゆる命を生かし育むハタラキをもっています。このハタラキこそ仏と呼ばれるものなのです。

曹洞宗を開かれた道元禅師は「眼横鼻直」ということをいっています。「眼横鼻直」とは眼は横に、鼻は縦についていると言うことですが、その当たり前の事実の中にわがいのちを生かし続ける仏と言うものを見出されたのだと思います。

それは眼や鼻のことだけでなく、空気があり水があり太陽があり大地がある。
その当たり前に思っているあらゆるものの中にわがいのちを生かし続ける大いなるハタラキ、すなわち仏を見出されたのだと思います。そのことを、道元禅師は、「尽十方界真実人体」ともいっています。この宇宙全部が自分の体であると言っているのです。

それは、
この宇宙に存在するもののどれ一つ欠けても私のいのちはなりたたないと言うことであります。このように私たちは人間を超えたあらゆるものの恵みをいただいて生きているのです。ところが、私たちはそれを当たり前のように思っています。それが私たち人間の思い上がりであり、愚かさであると思うのです。

そんな愚かな私たちに向かって「あなたのいのちは生かされて生きているいのちなのですよ。とてつもない大きな恵みをいただいているいのちですよ。そのことに目覚めて下さいね」と呼び続けている声が南無阿弥陀仏なのです。当たり前が当たり前でいてくれることを心の底から喜んでいくことが出来た時、私たちは、間違いなく仏の大悲の中に包まれてあることを確信することが出来ると思います。


あたり前の中にこそ御仏の大悲が働いているのです。