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| 聴 法 録 400 |
聴法録400-1
人よ、汝の思想が道徳的であるように努めよ。
この世における強い権力は、物質である。こう考えるのは、常に私達が、この権力に下にあり、その力に圧せられいるからである。内在する真実の生命の力、思想の力をこの物質に比べると、小さいように思われる、内在する真実の生命や思想が遙かに優れているのだ。この力は、私たち個々の生涯を革新するばかりででなく、人類の生涯をも変革する大きな力を持っているのである
内在する真実の生命は、肉体を支配しているが、肉体が内在する真実の生命を支配することは出来ない。故に、肉体の善化は、内在する真実の生命の善導を、人は慮るべきである。
人の生涯が、善悪不定であるのは、肉体と内在する真実の生命との関係が定まらないでいるからだ。肉体方面に中心を置くと、真の生命がその力を失い情欲、貪欲、争闘、増悪、死への恐怖等が盛んになる。内在する真実の生命的方面に重きを置けば、その生涯は向上し、情欲、争闘、増悪等は委縮し、人を真に自由なものとすることが出来る。そして、心は肉の脅威から、脱出し道徳が立派に築き上げられる。これは思想の善導によって得られる結果なのである。
セルカが友人たるリユチニー書き送ったものに次のような言葉がある。
「親愛なるリユチニーよ、汝は自力で善を確立しょうと務めているが、それは、実に立派な善いことだ。汝のような方法で勉勤するなら、恐らく誰でも目的を達するであろう。そして進んで行くと、両手を差し上げて祈ることも、大いなる真実の生命が耳を傾けるように、神殿の祭司に祈りを乞う必要もなくなるであろう。何故ならば、大いなる真実の生命は常に私達の内にあり、私たちが善に就くか、悪に従うかを注視しているから、大いなる真実の生命が、私たちをいかに遇するかは私達が大いなる真実の生命をいかに遇するかに比例しよう誠心、誠意を持って大いなる真実の生命を尊敬するならば大いなる真実の生命は慈悲深き手によって私たちを撫育し、善導して下さるであろう。」
ある一つの事が善であるか、悪であるか、十分理解できずに迷っている時はこの世界から超然と離脱した心を以って、この一事を考える必要がある。
社会の評判を如何に関心を持つのは、善悪の判断を誤るもとだ。人間の心が精神的なものに没入してしまうと、総ての疑念が消えうせ、善悪の区別が明瞭になる。
誘惑に囚われないうちならば、誘惑と争うことが出来る。この世に於ける憂慮や誘惑が絶えず起きている時には、これをよけたり、絶滅したりする手段を講ずることは不可能であろう。然し、この世の慮りや誘惑に絶え間のあった時、迅速にこれを避けたり、絶滅したりすることは、さほど困難ではない。
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