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| 聴 法 録 401 |
聴法録401-1
生きてる人と死者とは練濁絡できるであろうか
「私には能力があるから、他人の智慧など借りる必要はない」などとは、青年のよく言う言葉だ、この言葉には道理がある。成程、自分が考え出した理屈は他人の考えた理屈よりも貴い。然し、何の必要があって、賢者や智者が千思
万考の末に得た思想を、未熟な人間が更に考え直すのであろうか。更に完成したものなら、それを持ったがよいではないか。まして、他人の思想を議論検討する事など、早急には不可能なのであるから。罪悪、誘惑、妄信等から、人を救い出す力は、初め思想中に発芽したものが、やがて努力によって具体化してくるのである。罪悪、妄信、誘惑等をよけるにあたって、私たちに大きな力を与えるものは、聖賢の教訓である。その内で最も有効なものは聖者が残した祈祷の判例である。では、その祈りとは何か。祈祷の真意は、人間の真実の生命と宇宙の真実の生命との交渉にある。そして、祈祷そのものは内在する真実の生命が包含する哀情を披露する言葉なのである。
人間に於いて祈りが大切な事は、昔から誰しも認める所である。昔の人は、内在する真実の生命や諸々の神に祈ったのである。現代人も、この例にならい、一定の場所で一定の誦句を以って神に祈りを捧げ、神慮に協うことを希っている。キリスト教徒は、こういう祈りを知っていない。その祈りは、世の災厄から逃れ、人生の幸福を得るためではなく人間に良き思想を確立させる方法として誦読するものでなくてはならないものものだ。
真の祈祷は、内在する真実の生命の為に重要であり、必要でもある。祈ることによって、人は内在する真実の生命に近づきその理想を向上し、徳義は進歩する。
キリストは、「祈りは独處で行え」と言っている。こういう祈りは、必ず内在する真実の生命に聞かれるであろう。人々は先ず、内在する真実の生命を覆い隠す邪魔者を取り除かねばならぬ。
悲哀は、生涯の意義を破壊するものだ。この状態から、人間を救い出す方法が一つある。それは、選者の残したよい思想を、悲哀に打ち沈んだ時に思い出して、先天的にその心に潜んでいる徳義の念を開明するにある。徳義が明らかになれば、真理が明らかになれば、真理が光を放ち、大いなる真実の生命に捧げる祈りによって活きてくる。
どんな場合に於いても、祈ることを忘れてはならない。祈りは、生涯の変更に際しても、内在する真実の生命を忘れず、その津法に深い責任感を持たせるようになる。驚愕、憤怒、躊躇などに錯乱された場合の祈りは、一層意味が深いのである。こんな場合に、静かな祈りを捧げる事は困難だが、修養を重ねるに従って容易になる。
大いなる真実の生命に捧げる祈りは、新鮮溌溂たる心を以って為せ。内在する真実の生命と人と関係は、日々新たにして、又、日々に新たでなければならぬ。人間は、絶えず成長し、常に変移するものであるから、内在する真実の生命との交渉も、日々に新たでなければならない。ここにこそ、祈りが日々に新たな要因があるのだ。
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