聴  法  録  405

聴法録405-1
死は避け難い
幼児が生まれた時、本能で感じるのは「この世には自分の外に何もない」ということであろう。彼は、何事にも何人に対しても譲らず、又、敬意を払わない。
全く唯我独尊的存在である。彼はその母をも認めていない。唯、母の乳房を認めるのみだ、だが、年月を経るに従って、自分以外のものが居て、自分の欲するものを与えてくれるものを覚えこむ、それから彼は、この世は自分一個のものではなく、他に多くのものがあり、欲するものは腕力を以って他人から奪はねばならないのだと悟るようになる。
腕力が劣ってい、何もできないことに気がつくと他人に頭を下げるか、智慧を以ってこれを得なければならぬと思うようになる。やがて彼は、自分の生涯は時間に制限されていて、何時この生涯が終わるか、予測できないことを悟り、終には死が目前に迫って、自分の周囲の誰彼が生命を奪われていくのを認めるようになる。これは彼自身も愛着する運命である。こうなると人は誰も考えざるを得ない。

「自分の肉体には真の生命が無い。肉体のためにはどんなことをしてでも、何の役にも立たないのだ」と。人間が、このように危険な地位にあることを領解したら、彼の持っている内在する真実の生命は彼一人の所有物ではなく、全人類、全宇宙のものであることを悟ると共に、彼と大いなる真実の生命との関係をも理解できよう。かくして、人間は肉の生活に重きを置かなくなり、自分の生涯の目的を大いなる真実の生命との一致に求め、内在する真実の生命と共の永久の存在に適うようになる。

死は、絶えず私達を待っている。私達の生涯は、この死の前に何時もさらされているのだ。私たちの働きが、肉の生涯のためなら、その結果は肉体の死である。そしてこの死は私達の仕事の全部を破壊してしまう。この場合、私達は子孫のために働くのだと自ら慰めるであろうが、その子孫もやがて死滅して、何物も残らないのである。かくて、物質的の目的を持つ生涯は、何等の意義もあり得ぬことが明瞭になる。意義ある生涯は、ただキリストの教えによってのみ得られるのである。


肉体の生命は、真生命の仮象に過ぎないと共に、他に真の生命があって、人はこれによって幸福が得られるのだ。こういう真生命の存在を、人間は智慧によって確知できる。キリストの教えは、個人的な生命や肉体の生命が、如何に頼りないものであるかを示すとともに、肉の生命と決別せねばならぬこと、人間としての生涯、人の子の内在する真実の生命に進んで行くことなどの重要さをも示している。

基督が述べた救いの教えを、理解させるために、預言者はなにを言い、ソロモンや仏陀は何を説いたろうか。又、古今の聖賢たち人間の生涯に就いて何を教えたろうか。パアスカルの説は次の如くである。
「その生涯に関することを、人間が考えないのは、、眼の前に衝立を立てて死の絶壁を隠しているようなものだ。どんなに、もがいていても、人間は死から逃れ得ないのである。」個人の生活とは、一体いかなるものか、若し、この個人生活がただ肉体を指すものであるならば、その善生活は何らの意味もなく、人間の感情、智慧人生の善に浴びせかけた嘲笑のようなものである。キリストの教えを理解するためには、先ず自ら覚醒し反省しなくてはならない。