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               聴 法 録 41

聴法録41-1

諸仏 を見るをもっての故に念仏三昧と名づく
普通、ナムアミダブツ、ナムアミダブツというのが念仏三昧と言うように思われているけれども、諸仏を見るを以って故に念仏三昧と名づくと、家庭生活の中で、職場生活の中で、諸仏をその中で発見することが出来るかどうかと言うことであろ。こういうことが念仏三昧にかかっている。
ですから我々はお互いが人間だとおまうから腹が立つ。そうではない諸仏だとこういう。相手が諸仏だと言うのが念仏三昧である。

「而今の山水は古仏の道現成なり」
これは道元の言葉である。而今と言うのは今、目の前にあること。山や川は古仏であるといっても仏像の骨董品をいうのではない。古仏とは言葉を変えれば法身仏である。それは人間の目にはわからぬ。だから私は「ハタラキそのもの」と言い換えた。
太陽から月から虫けらから我々、この世に存在する一切を生み出すものを法性法身とか法身仏とか言っているのである。ハタラキそのものから、存在一切が生まれる。我々も両親から生まれてきたように思っているけれども、両親もハタラキそのものから、縁あって生まれてきた。ハタラキそのものまで戻ると、魚でも鳥でもなんでもみな我々と同じである、一如平等である。

一如平等の世界、これを無上仏と言われる。無上仏というのは色も形もなくまします。ハタラキそのものだから色も形もない。色や形はハタラキそのものから具体化して、形をとってきたもの。我々ももとを正せば、ハタラキそのものから生まれてきたのである。ハタラキそのものが大本である。これが一番大事である。「離言の法性」と言うことである。
色も形もないと言うことは、言葉で表現できないと言うことである。ハタラキそのものが大本で、それからすべて来ている。形の無いハタラキそのものの働きを感じ取ることが出来るかと言うことが、我々にとって大切なことである。

我々は形のあるものしか見ておらぬ。形以前のハタラキそのものを感じとるかかどうか。ハタラキそのものは色も形もないけれども、我々を助けれるために色々な形をとって下さっているのではないか。太陽がないと生きらねぬ。月がないと生きらねぬ、風や雨がなくては我々は生きられぬ。山あり川あり、虫けらまで一切あるお蔭で我々は生きることが出来る。一人ひとりを生かすために宇宙全体総力をあげて、寸時も休まず活動してくださるのでないかと、そういうことを感じとる心を、信心というのではないか。