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| 聴 法 録 413 |
聴法録-413−1
獣的生涯を脱して真実の生命の生涯に入れ
個人の生涯のためにも社会の生涯のためにも、津法は唯一つである。人間の生涯が善化されるためには、何時でも、生命を投げ出すだけの覚悟が必要である。
克己による結果を、その実行者は知り得ない。ただ一回でも、克己の良果を体験するなら、よしそれが真実の生命と肉とに対する一時的なものであろうとも、正しい人には好影響があろう。また、彼は自己を忘れて肉から解脱することも出来るである。
人間の獣的の「我」から解脱し得れば、その生涯は全く自由なものとなり、他人にも有益に、彼自身にも喜ばしい結果を持ち来たらすであろう。
「己が生命を失うものは、却ってこれを得る」と福音書に記されている。これは、獣的生涯の幸福から逃れ出る物にのみ、真の生命が与えられるということを意味する。真の生命は、人間が肉の幸福を棄てて真実の生命の幸福を覚める時から始まる。
自己の生命のみを望む人間は、牧場、畑、森林、池沢、などに注ぐ雨に似ている。雨が降ると、雑草や森林は生きるが、晴れると晴天は素知らぬ顔をしている。善人の生涯も、この雨のようだ。彼は多くの人を援け、その生涯を円滑にし、真理に導き、慰籍与える等々、万事を整えてやる。そして彼がその死に向かうや、永久の生命と、見えざる神(真実の生命)の在す處へ進むことが出来るのである。
樹木は、求める者に果実、樹皮、精汁を与える。人は善を行なって幸福を得る。これは明らかなことであるが、善を行なう者は僅少だ。
「自己」という念が心にある間は、人間に幸福はない。だが、この「自己」を脱する事は困難な仕事である。如何に、善に向かって突進しても「自己」の念が少しでも残っているうちは、それは完成しない。「自己」という念を、完全に行為から取り除かないと、幸福は得られない。
人間の生涯から「自我」と「自愛」を取り除いたら、何も残らないように多くの人は考えている。彼等には、「自我」なき生涯が信じられないのだ。然し、この考えを抱いている人は、未だ真に克己の喜びを知らないのである。先ず、その生涯から自我を除去せよ。そうすれば、生涯の真核である。人に幸福を与える愛情が残る。
精神的の自我を知ることが、深ければ深いだけ、肉をさけることが徹底的であればあるだけ、人間は自己を知ることが正しくなる。
獣的生涯から真実生命の生涯に移ることが、確実であればあるだけ、人間の生涯は自由になり、喜びを増す。獣的の立場から真実の生命の心に移るためには、肉をさけて、信仰と克己とを得る必要がある。これ等のものは、互いに助け合って発展するものであるから、その心構えで努力すべきである。
「人間は幸福だ」という見地から、人生の諸問題を解決することは出来ない。何故ならば、人間の高尚な傾向と、幸福とは矛盾することが多いからだ。又、義務という見地からも、この問題は解決できない。何故ならば、義務の遂行は、平和を与えても決して幸福を与えぬからである。
唯だ神(真実の生命)における正常な愛と信仰とによって、神(真実の生命)と和合することのみが、この生涯を除去するのであろう。その犠牲は、何物によっても破壊されぬ喜びであるからだ。、
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聴法録413-1
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