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| 聴 法 録 414 |
聴法録414-1
謙譲
この世の幸福はこれを受ける人の心境にふさわしいものであろう。傲慢な人は自己を他の人より分けることによって幸福を失い、謙譲な人は自らを卑しくすることによって十分な幸福を得る。
傲慢をさけよ。傲慢は心中にあって神を汚す。
人間の心に神が在ることを知る人は、謙譲な人である。この人を、世人がいかに悪しざまに批難しようとも、決して汚れとはならぬ。
自己を、生命の主と認めるものを、謙譲な人とはいえない。彼は自分の義務を軽視するからである。人間の義務は神(真実の生命)に仕えるにありとする者は、勢い謙譲な態度を執るようになる。何故なら、彼は多くの義務を行なわなかったことを自ら認めるからである。
「困難なことをうまく片づけた」とか「私はこんな立派な行いをした」などといって、誇る人があるが、私達のうちには唯神(真実の生命)が在って善事を行なうように導いているのみである。如何なる行為に対しても私達は誇り得ないのだ。私達は神(真実の生命)の器械に過ぎないのである。この実際を悟ったなら、決して誇り傲ることは出来ない私達が、自ら行ったと信じて傲然と構えていることは、神(真実の生命)の望みが具体化したのである。この状態は丁度、泉の湧出口に横たわっている石のようだ。
石が清潔なのは自ら水を吐き出していて、尚且つ生物の渇きを癒しているのだと思い込んでいるのに似ているようだ。勿論、石の自慢は正しくない。石が清潔なのは、自分の下から湧き出す清水に洗はれているからである。
私達のなす総ての事は、神(真実の生命)や隣人の援助なくしては絶対に不可能であるから、総てのことを神業とするのが当然である。
人間の生涯の目的は、善と完全とに進んでいくにある。然し、一度前者となった以上、尚その上に善者となることは出来ない。又、一度完全に達した以上、更に完全を望むことは不可能である。
神(真実の生命)の意志を行なう器械としての私達は、何を為すべきであるか。これは恐らく誰でも知っていることであるが、「何故こうせねばならないか」に就いては、誰も知らない。これを熟知するためには、先ず謙遜な人であらねばならない。
労働者が自己の地位と価値とを、十分に理解すれば必ず勤勉な人となるであろう。人間の生命は、人そのものの所有物ではなく、これを附与したものの所有物であると解釈するならば、キリストの教えをよく守ることが出来よう。
生命の目的は、その生命を持つ者自身にあるのでなく、彼に生命を与えたものの意志にある。人間は、自己のうちに神(真実の生命)の力の現れることを妨げるが、自身単独では少しの善事をも為し得ないものである。
自己を主人だと認めぬようにせよ。さうすれば、暗中模索や、不満足の念は消滅して、平和、安静、愉楽の念が湧き上がってくる。
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