本文へジャンプ
               聴 法 録 42

聴法録42-1

生かされていることが分かるまで救われない。
生かされて生きていることが分からなければ救われない。

赤ん坊も生かされて生きているのだ、年とった我々も生かされて生きとるんです。赤ん坊も空気を吸って生きておるし、心臓が動いているけれど、その赤ん坊も、心臓は自分で動かすものでない。空気も自分で吸ったり吐いたりするものでない。これは、赤ん坊も生かされて生きとる。我々も生かされて生きとる。そういう点では、赤ん坊も我々も同じだと。
人殺しをしようとしても、これも空気を吸っておらなければできないし、心臓が動いておらなければできない。だから、もし人殺しをするのが悪いと言うことであれば「善悪をえらばれず」でない。仏というのは、そこが慈悲心と言うことになるんでしょうけれども、人殺しをするものでも生かしておるのではないか。そういう点で老少善悪をえらばれずと言うのは生かされて生きておる事実である。

救われると言うことは、生かされて生きておることが分かることである。つまり、我々を生かす。我々の方からいうと生かされて生きていると言うことが、我々を生かしておる方からいうと、我々を生かさせる。我々を生かしているのを、法身仏又は大いなるいのちと言う。「離言の法性」と、こういわれる、と。離言というのは、言葉で言い表すことが出来ん、言葉で言い表せない。「こころもことばもおよばず」言葉を超えておる人間の言葉で表現できん。だからこれを分かりやすく「ハタラキそのもの」と称している。「ハタラキそのもの」というてもわからんのでこれは、風のようなものと、風というのは風そのものを見ることは出来んけれども、風が起こす現象を通じて、風の存在を我々が知ることが出来るように、具体的なものを通じて「ハタラキそのもの」を我々は察することが出来る。この法身仏または大いなるいのちというものが、仏の本体であってこれが分かると言うことが、人間にとって一番大切なことです。