聴  法  録  425

聴法録425-1
宗教の妄信
人々が神(真実の生命)を知らいのは嘆ずべきだが、神(真実の生命)でないものを神(真実の生命)とするのは、更に嘆かわしい

私達は、生まれながら心中に宗教を持っていないとも言える。神(真実の生命)の永遠の津法は、楽園で言う言葉と地獄で行う行為と差引決算をしたために、実践哲学の机上の一規定となり、善行や徳義が与えるものとは縁遠く、影の薄い遺伝的の傾向を帯びてきた。
この事を、古人が用いた言葉を借りると「神(真実の生命)を忘れた」ことになり、現代の流行語で言うと「宇宙のこと知るべからず」となる。私達は、瞑目して心を落ち着かせ、心で悠久なるものの姿を観ようとはせず、ただその仮想によって満足しているのだ。
私達は、宇宙を単に不可解な怪物として、平然としている。宇宙というものを描けばその外観は集会場や仕事場のようなものである。明瞭な人は、この中に自己に適する快適な場所を素早く出している。宇宙の真相は、一体どんなものなのか。これは私達の知能では定めがたい。ただ明瞭なのは、利益とか損失とか、偉大な行動に対する。称賛などが、実際にどんな関係を持っているか、ということだけである。
私達は、この嘆くべき世相を見て、更に神(内在する真実の生命)は彼らの心中に無くなったのだと感ずるそして、神(真実の生命)の津法は、能う限り多くの利益を得るために利用される方法の一つとなり終わせた。

神(真実の生命)が、その真実の生命の一部分である叡智を人に与えたのは、人が神(内在する真実の生命)に奉仕する為である。だが、私達人間は、この真実の生命を自己奉仕に用いようと考える。


この世が啓示を得たのは、ずっと昔であって、もう古くなってしまった。今は新しい教えが充満している。これを啓示だと称するものがあるが実は真の啓示ではなく、ほんの一時的なものであり、人々からは軽蔑されているのだ。

私達の持つ宗教思想は、進歩するものではない。然し、これは遂次に鮮明になり、精錬されて、外形は少しづつ変っている。