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| 聴 法 録 426 |
聴法録426-1
宗教の妄信
汚れた心を以って、何故神(真実の生命)と物語ろうとするのか。何故神(真実の生命)の宮殿に往くというのか。心の悪しき者が、どうして神(真実の生命)の宮殿に往けようか。聖者は、森にも、天にも、清冽な川にもいない。ただ清浄な自己の心中に住んでいるのみだ。心を清浄にしていると聖なる神(真実の生命)が現れて、その身体を、神(内在する真実の生命)の宮殿としてしまう。
悪念を去れ。そして、神(内在する真実の生命)を心の眼で見よ。すると、神(内在する真実の生命)が心の眼に映る。かくて人間、自己を知り得るのだ。これを体験せずして、書籍によってのみ心中の恐怖を消滅させようとしてもそれは不可能である。描いた燈火では、闇は照らせない。 どんなに厚い信仰を持ち、どんなに熱烈な祈りを捧げようとも、その心に真理が無かったなら、決して幸福は得られない。真理を得た者のみが、精神的に生まれ変るのだ。
真の幸福の源泉は、心中にある。自己の心中以外に幸福を求めるものは愚かな人である。彼は自分の懐に入れた子羊を捜し廻る牧人のようだ。神(真実の生命)の神殿を建てるのに、何故そんなに石や木材を探し廻って苦しむのか。神(真実の生命)の神殿は、自己の心中にあるのではないか。
神(真実の生命)の宮殿を建てるのに、何故そんな石や木材を探し廻って苦しむのか。神(真実の生命)の宮殿は、自己の心中にあるのではないか。
番犬は、千の神像に優り、半人、半神の木石神は、宇宙の神(大いなる真実の生命)とは比較すべくもしないのだ。
暁の明星の如く、各人の心に輝いている神(内在する真実の生命)こそは、私達の望みと楯である。
人生の行路に逢着する悪を排除するのは、宗教が抱くものから始められるべきだ然る後、各人の心に宗教的真理を嵌め込むがよい。
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