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| 聴 法 録 43 |
聴法録43-1
人間と言うものは、奪われてみんと、与えられているものの有難さと言うものが分からないものなのです。人間と言うものは、与えられているのが当たり前になっているのです。
それは真実を見る目、耳がないからだ。どうしたら、真実を見る目や目がつくのか、それはあなたが、真実の自分に遇ったことがないから、一度静かに今日までの自分はどうして来たか、振り返ってみてください。一切の働きを当たり前にして何とも思わず、自分の外のことにのみ心をかけて、損や得、幸不幸、季節の代わりや泣き笑いに力を入れ、世間のことに支配されたり、意識したりして、今日今まで自分を忘れずずくめで、生かしめている自然のはたらきには
、無意識です。今こうしている一瞬も、支えられている力に気付かず、当然としている。
しかし真実のいのちは、この背く私を包み、なお何の咎めもせず、生かして、生かし続けて下さる。この無償のはたらき、いのちの尊さに申し訳ない、かたじけないと感動する時、真実の耳や目が与えられます。
自分を見たことありますかと聞いたら、いっぺんもありませんと。真実の法は外を見ていた目、耳を自分の内面に向けるはたらき、それが真実の法です。あなたが今日まで、自分と思っておられたのは、あなたが育てた自分であります。
真実のあなたは、一切に支えられて生かされて生きている自身があなたです。今、真実の呼びかけによって、真実の自分に遇われて、ああ私はこれであったのかとうなずかれた時が、初めて人間になれるのです。
あなたが無償のはたらきをするのでなく、無償のはたらきの中に包まれている自分に立つことが出来て、真の真実の人になれます。南無阿弥陀仏は人間に生まれてよかった、私が私に生まれてよかったとの、満足の声です。自分の存在がかたじけないと、拝まれる心です。本願が形をとった大きな呼びかけに目覚めて下さい
生活が非常などん底まで落ちても、本願の真実のいのちの世界そういうものを心の支えとして生き抜くことが非常に大事だと思う。
この人は困っても愚痴をこぼさん。愚痴をこぼさずに逆境を生き抜いている。この逆境を引き受けて、生き抜かせる力が、本願の真実のいのちの世界を信じると言うことであると思う。
本願の真実のいのちの世界のはたらきをいくら讃嘆しても、自分自身が本願の真実のいのちの世界のはたらきを確かめていないことには、なんにもならない。
その人の言うことに、なぜ説得力があるかと言うと、本願の真実のいのちのはたらきとその人が一体になって生き抜いているからです。本で読んで覚えたとか、大学の講義を聴いたとか、そんなものは何にもならない。自分の身体と離れている。
その人は、本願の真実のいのちのはたらきと一体になっているから、その人の言うことに説得力があるのです。
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