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| 聴 法 録 44 |
聴法録44-1
「絶対他力の掌中にあり」と、清沢先生がいわれたけれど、そんな絶対他力なんて言うと、えらいむつかしように考えるけれど、そんなに難しものではない。空気を吸うてると言うことが、他力の中におると言うことです。私がよく言うのは、この中で、自分で心臓を動かしていると言う人おりますか。心臓は何かしらんけれども、ひとりでに動いている。その心臓を動かしているはたらきを、他力と言うのです。自分で動かしているものは一人もありません。そういう身体そのものが、他力によって計らわれておると言うこと。
はからわれている。
私は言うけれども、皆ここに来るのに、右足出して左足出した後、と考えて歩いてきたか、考えてどこへ行こうと言う目標さえ決まると、足が出るのです。足が出ると言うことは、他力なんです。歩くことも他力なんです。でこの、そういう他力と言うのは、実に身近に、他力の中で他力を利用して我々は動かしてもらっていると言うことが、一般にわかっておらんのでないか、と思います。
他力と言うのは、何か遠い所にあるように思うし、阿弥陀さんなんて、どこか遠い所にあるように思うている。仏なんてどっかの向うにあるように思っているのではないかと思う。だから他力なんて、実にあっけない。歩くと言うことは、もうすでに他力と言うことです。
それで、摂取不捨と言うのは、真実のいのちのはたらきの中に生かされて生きている、他力。簡単に言うと、心臓を動かしているもの、そういうものの力によって、生かされて生きていると言う。生かされて生きていると言うと、何か非常に消極的なような感じがして、こういう言葉を好かん人がいる。しかし、事実は生かされて生きておることに間違いない。
間違いないにもかかわらず、自分が生きているように思いたいのや。思いたいと言う、そういうところにひじょうな間違いがある。そういう自分の錯覚、それに気づかしてもらうのが、仏教を聴く功徳であろうと思う。それで人間を超えたはたらき、絶対他力の中に生かされて生きていると言うのが分かるのが、無上覚である。
この上ない悟りと言うのは、それ以外にないと思うのです。覚りと言うものはそういうものです。
身近なもの、我々の生活の中で我々が生きられるように、助けてくれるものは、諸仏だ。「諸仏を見るをもっての故に、念仏三昧と名づく」と。念仏三昧というと、ナンマンダブツ、ナンマイダブツとしょっちゅ念仏をとなえているのを、念仏三昧と我々は思うけれども、それは間違いで、諸仏を見るをもっての故に‥‥自分以外のものは、全部諸仏として拝まれるかどうかで、これを念仏三昧と言う。これは実にすばらしい言葉だと思う。 |
聴法録44-2
さとりということと、信心と言うこととひとつである。信心を得たと言うことが、たすかったということであって、その助かったと言うことは、悟りを開いたと言うことだと、こう思うのです。ですから来生ではないのです、今さとりをひらくことです、今です。
そのさとりというのはどういうのかというと、真実のいのちの世界の中に生かされて生きている自分であると言う、自分の本当の姿が分かることや、と。だから、さとってもさとらなくても、皆、真実のいのちから生まれてきて、真実のいのちに支えられて今も生きとる。でまあ、娑婆の縁つきれば、真実のいのちの世界へ帰る。これだけは間違いないと思うのです。
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