聴  法  録  450

聴法録450-1
肉体の死は生涯の終わりではない
私は、現代の、どの宗教にも依存しないから、ある宗教の影響下にあるという疑念を抱かれる必要はない。だが、私は、人間生涯の規範や徳義に就いての研究には十分努力を払ってきた。始め、私はこれを人類史のうちに深く求め、やがて思想を動かし、真実の生命の本質に鑑みて、次ような結論に達した。「真実の生命に死なく、生命は永久のものである」この無限の真実の生命のために完全を求むべきはつまり、生命の法則であって、私達の力や思想、行為などは、これに支配されて発達するわけである。この力、思想、行為は、発達しつつあるが、その極致に達するのは、前途甚だ悠遠である。又、どの程度の発達が遂げられるかは、智でも感情でも判断し得ない。要するに、地上に現れる以外のものは、何物も滅亡することはない。真実の生命の滅亡しないのは当然である。私達が死と名づける肉体の消滅は労働者が使用していた道具が、古くなったのと少しも変わらないのである。

不死を希望することが誤ったものであるならば、正しいものが甚だ少ないことになる不死を希望する人は、教養の低い、良心と思想の狭小なものではない。又、愛情の冷ややかな自愛者でもない。結局、この種の人が、生涯の利益を得るのではなかろうか。又、彼等こそは、世人が尊敬する大人物であり、聖者であるかも知れない。だがしかし、そういう考えについて、多くの場合、誤ったものとされ、誑かされたといわれるのは、自己よりも他人の幸福を念じ、生命までも架した人なのである。若し、不死の希望が誤りなら、キリストが心の父のために自己の生命を投げ出したのは、徒に苦しんだことになり、ゴルゴタ丘上の悲劇は、愚かな誤診となろう。そして、その時キリストを嘲笑し、その死を望み、喜んだ人たちは正しいものとなる。更に、人の天性に従う真理は人間に関係の無いものとなり、この一篇の哀史は、単なる作り話であると信じる不徳漢が正当な人間と言う事になる。若し、大いなる真実の生命の啓示が、狡猾なものによって編み出されたそらごとのようなものであるならば、一体、私達は何ものを信じ、何物を貴んだらよいのか、一向に解し得ない者となる。